1989年6月4日、中国・北京の天安門広場で発生した「天安門事件」は、20世紀後半の東アジアにおける最大級の政治的弾圧のひとつとして、今も世界の記憶に深く刻まれています。
1988年5月、北京・天安門広場にて。壁には「中華人民共和国万歳。世界人民大団結万歳。」の文字が書かれていた。
© Derzsi Elekes Andor
発端となったのは、同年4月に起きた、改革派の政治家である胡耀邦(こようほう)元総書記の死去でした。胡耀邦は、中国共産党の中で民主化や言論の自由に理解を示していた数少ない指導者のひとりであり、保守派の圧力を受けて失脚した人物。彼の死を悼むため、北京の天安門広場には多くの学生たちが集まり、追悼とともに彼の名誉回復を求める声が広がっていきました。
上海市内に掲げられた、六四学生運動を支持する横断幕。
© zhenghu feng
しかし、その要求はやがて「民主化の推進」へと広がりを見せていきます。言論の自由、汚職の追放、政治改革を求める声が高まり、学生だけでなく市民や労働者も合流し、100万人規模の大規模デモへと発展していったのです。
言論の自由を訴える人権派弁護士、浦志強(1989年5月10日撮影)。
© 蔡淑芳
こうした動きに対し、中国共産党は強硬な態度を示します。4月26日付の党の機関紙「人民日報」は、学生らの運動を「動乱」と断定する社説を掲載し、学生側の怒りはさらに強まります。一部はハンガーストライキなどの非暴力的な手段で抵抗し、政府との対話を模索しましたが、状況は次第に緊張を増していきました。
中国人民解放軍は天安門広場の民主化抗議活動からこの女子学生を引き離そうとした。
© 美國之音
そして、6月3日の深夜から4日の未明にかけて、政府は事態の鎮静化を名目に、人民解放軍を天安門広場および周辺地域に投入。装甲車と実弾を使用した軍の部隊は、無防備な市民や学生に対して発砲を行い、広場を強制的に制圧しました。市民や報道関係者の証言によれば、犠牲者の多くは逃げる途中や通りで銃撃され、あるいは戦車にひかれたといいます。
1989年6月7日から11日の間に北京市海淀区中関村通りで撮影。天安門広場での6月4日の弾圧の翌日。
© Daiwenchen
中国政府は、公式には319人が死亡したと発表していますが、人権団体や各国メディアの調査では、数百人から数千人にのぼるともいわれており、事件の正確な犠牲者数は現在も不明のままです。また、この事件をめぐる中国国内での言論は厳しく制限されており、ネット検索や言及自体が禁じられている状況がつづいています。
事件から20年を迎えた追悼のキャンドルライト集会にて(2009年6月4日撮影)。
© ryanne lai
6月4日は、中国現代史のなかでももっとも暗い影を落とす日です。自由を求めて声を上げた若者たちの姿と、それに対する国家の対応は、表現の自由と政治的な意思表明のあり方をめぐる重い問いを、今なお私たちに投げかけています。
Yayoi Arimoto
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Yukimi Nishi
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