日本最古級のパン店創業、
横浜でパン作りが栄える
日本で初めて本格的にパン作りが行われるようになったのは、横浜の外国人居留地。西洋料理の草分けとして知られる東京上野の精養軒ホテルをはじめ、当時増えつづけていた西洋料理店も、横浜で修業したパン職人を雇っていたとされる。
日本にいわゆる「パン」がやってきたのは、室町時代のこと。それからパンはどのように日本で広まっていったのだろうか。そのターニングポイントをおさえていくと見えてきたのは、江戸、明治、大正から昭和にかけての、日本の西洋化、近代化社会の変遷そのものだった。
日本にパンがやってきたのは室町時代末期のこと。ポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教とともに西洋のパンが伝来した。日本で定着している「パン」という言葉も、ポルトガル語の「pão(パオン)」由来している。
1549年
ザビエル来日。その後、長崎や平戸でパンが広まる
江戸時代は、鎖国政策やキリスト教弾圧によって、西洋のパン文化は大衆には広がらなかった。ただ幕末になると、保存性と携帯性の高いパンが戦場の食事に向いているとして、一時注目される。当時の代官であり、後の日本軍陸海軍の創始者である江川太郎左衛門が、兵糧としてパンを製造したといわれている。
1639年
鎖国政策でポルトガル船の来航を禁止。キリスト教が弾圧されパン食は衰退
1842年
江川太郎左衛門が兵糧として初の国産パンを製造
1858年
日米修好通商条約に調印
1859年
横浜、 長崎、 函館が開港 (その後、1868年に神戸が開港)
1860年
内海兵吉、 フランス人にパンの製法を習う
1864年
長崎の大浦天主堂で、 キリスト教とパン食が広まる
1866年
福沢諭吉、 著書 『西洋事情』 でパン食文化を紹介
1867年
大政奉還、 内外情勢の緊迫により兵糧パンが登場。イギリス人によるヨコハマベーカリー (現 ・ ウチキパン) 創業、食パンを製造
日本で初めて本格的にパン作りが行われるようになったのは、横浜の外国人居留地。西洋料理の草分けとして知られる東京上野の精養軒ホテルをはじめ、当時増えつづけていた西洋料理店も、横浜で修業したパン職人を雇っていたとされる。
1867年に創業した日本初のパン店ヨコハマベーカリー(現・ウチキパン)の様子。
© 横浜開港資料館蔵
日本におけるパンの状況が大きく変わったのは、明治維新からだ。政府が衣・食・住の西洋化を啓蒙するようになる。天皇自ら肉を食べてみせるパフォーマンスも奏功し、肉を含む洋食とパンの存在が徐々に広まっていった。
日本の街にパン店ができはじめたのも、幕末から明治維新後のこと。江戸時代最後の年となる1867年には、イギリス人による日本初のパン店であるヨコハマベーカリー(現・ウチキパン)が誕生。1868年に明治時代をむかえ、翌年の1869年には、日本人による初のパン店として文英堂(現・木村屋總本店)が創業、あんパンやジャムパンなど日本人の嗜好に合うパンを開発し評判を呼んだ。
さらに、幕末期に注目されていた兵糧としてのパンも、引き続き需要が高まる。米と違って炊飯する必要がないパン(主に乾パン)は、明治時代におきた日露戦争から本格的に日本軍に活用されるようになり、日清戦争や2つの世界大戦では多くの兵士のエネルギー源となった。
1869年
初代木村安兵衛 ・ 二代目英三郎が文英堂(現 ・木村屋總本店) 創業。上野で文明軒創業
築地に外国人居留地があったことから、銀座には文英堂(現・木村屋總本店)をはじめパン店や西洋料理店が軒を連ねた。文英堂のあんパンは、パンを敬遠していた 日本人の食指が動くきっかけに。
明治初期の銀座木村屋。
© 木村屋總本店
1870年
築地で蔦本パン店、 両国で松村鉄之助パン店創業
1872年
政府が西洋式の官制を確立、 衣・食・住の西洋化始まる。北海道で国営の製粉工場が操業開始。海軍がパン食を採用。築地で精養軒ホテル創業、パンの販売も
明治時代の銀座を描いた「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」。
1873年
キリスト教解禁
1874年
築地でフランス系スイス人カール ・ ヘスによるチャリ舎創業
1874年、木村屋總本店が米と麴と水から作られた酒種で発明した、初の日本オリジナルパン。明治天皇に献上されたことでその名が知られるようになった。
© 木村屋總本店
1877年
第一回内国勧業博覧会でパンが出品される。陸軍がパン食を採用。東京・森下で名花堂 (現・カトレア) 創業
1880年
自由民権運動が盛んに
1883年
鹿鳴館竣工、東京に食パン卸金田屋創業
1886年
日本橋で三河屋パン店創業。この頃、パンを弁当とする習慣が生まれる
1888年
フランス人のぺトロ・レイが小石川教会附属の学校の製パン部(現 ・関口フランスパン)を設置、フランスパンの市販を開始
1889年
大日本帝国憲法発布。横浜で富田屋パン店創業、フランスパンを製造
1890年
米騒動で食パンが代替食として注目される
1894年
日清戦争勃発(〜1895) 。有力パン業者は兵糧パンの製造に注力するように
1896年
パン業界も交えた運動により菓子税廃止
1897年
あんパンが全国的に広まる
1899年
日米修好通商条約改定、 関税の引き上げ
1900年
館林製粉株式会社(現・日清製粉)創立
1901年
横浜で新力本店創業、東京・本郷で中村屋創業
1903年
製パン製菓原材料品店明治屋設立
1904年
日露戦争勃発(〜1905)
中村屋の創業者夫妻がシュークリームのおいしさに感銘を受け、1904年に開発。当初は切れ目が入ったグ ローブ型ではなく、切れ目のない半円状であった。
1905年
神戸で藤井パン (現 ・ドンク) 創業
1907年
アメリカで金融恐慌発生
1911年
関税自主権回復。この頃、コーヒー・ カフェーブーム発生
1913年
京都で進々堂創業
チョココロネは、実は日本発祥。フランス語で「角」を意味する「コルヌ」が語源。経緯は不明だが、明治時代からあったといわれている。
1914年
第一次世界大戦勃発 (〜1916)
1918年
米騒動発生、神戸屋創業
2度の米騒動は、それまであくまで嗜好品として楽しまれていたパンに主食としての米飯の代替品という新たな価値を与えた。とくに2度目の米騒動は 1918年、大戦景気によりパンが広まった後に発生したため、そのムードをよりいっそう強めることになる。
1918年の米騒動で出動する鎮圧部隊。
出動は全国で延べ9万人を超えた。
1920年
敷島製パン創業
1922年
名古屋で金城軒(現・フジパン株式会社)創業
1923年
関東大震災発生
1924年
神戸でフロインドリーブ創業
あらゆる業者が和洋折衷食を模索していたため諸説あるが、1927年に当時の名花堂2代目が「具の入ったパンをカツレツのように揚げた」パンを作ったのが、カレーパンの始まりとされている。
第二次世界大戦後は、日本でイーストが普及して、ふわふわのパンが実現。アメリカによる小麦粉の配給制度も手伝って、安価なコッペパンが学校給食での提供によって広く食べられるようになり、配給された小麦粉でパンを作る「委託加工所」として製パン会社の創業ラッシュが起こった。現在につづく大手製パン会社も、この頃に多く生まれている。
このように、パンはその保存性の高さという性質に加えて、西洋文化への憧れ、社会情勢の変化など、当時の社会の影響を受けて私たちの日本人の食生活に欠かせない存在となっていったのだ。
1932年
神戸でフロイン堂創業
1939年
第二次世界大戦勃発 (〜1945)
1930年代に東京や神戸で類似のパンが作られていた記録がある。関西では「サンライズ」と呼ばれたり、広島には紡錘形のものがあったりと地域差がある。
1946年
アメリカ進駐軍が小麦粉を放出、パンの切符配給制開始
1919年、敗戦した日本にアメリカは小麦を配給。学校給食でパン食が始まり、多くの人びとにとってよりパンが身近なものになった。安価に製造できるコッペパンの発明も普及にひと役買ったといえる。
学校給食でパンを食べる学童たち。1950年9月撮影。
1948年
千葉で山崎製パン所(現・山崎製パン)、広島でタカキのパン(現・アンデルセングループ)創業
相次ぐ震災などの現場で目を引くのは、支援物資として届けられるパン。その裏には、被災しながらもパンを焼きつづける人たちがいた。彼らの想いと、非常時にこそ見えてくるパンがもつ力とは?
Index
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敷島製パンによる食糧支援の歴史は、1923年の関東大震災にまでさかのぼる。
地震のしらせを受けた同社は、食パンとコッペパンを軍艦にのせて現地に届けた。以来、伊勢湾台風、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、そして能登半島地震と、災害が起きるたびに、被災地にパンを届けてきた。
なかでも東日本大震災では、発災の翌日から中部・関西の工場をフル稼働させ、約1カ月間で150万個近いパンを供給。熊本地震では、九州に拠点をもっていなかったため、被災地に比較的近い中部以西の工場で増産体制を整え、約17万個のパンを届けた。
各製パン会社から能登に届けられた緊急支援物資。
© 令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/CC BY-NC-SA
こうした過去の災害の経験が積み重なり、迅速に対応できる体制づくりが磨かれてきた。生産工場は各地方に分散し、24時間365日体制で稼働。そのため、もしどこかの工場が被災しても、ほかの拠点でフォローすることができる。また、同社が加盟している日本パン工業会としても業界全体で国からの食糧供給要請に応じる体制を構築しているため、不測の事態が起きてもスムーズに対応できるという。
被災地で扱いやすいようにと、プラスチック製のパン箱ではなく、段ボールで発送された。
© 敷島製パン株式会社
また、届けるパンの種類にも工夫がある。「菓子パンや惣菜パンが多いのは、調理を必要とせず、個包装でそのまま食べられるから。そのうえで、製造ラインが重ならず、大量生産しやすい種類を優先しています」と広報担当者。また、主力商品のひとつである「ロングライフブレッドシリーズ」は、賞味期限が製造日から55日以上と長期保存が可能で、非常食にも重宝されている。
届けられたパンを運ぶ敷島製パン社員と自衛隊の人たち。
© 敷島製パン株式会社
そうした支援活動の根底にあるのは、社員たちの想い。「パンは国内の食のインフラのひとつ。だからこそ、私たちには供給責任があるという自覚を、社員一人ひとりがもっているんです。ですから、災害時に限らず、いかに安定して供給できるかという責任を常に感じています」と担当者。
地震や豪雨災害の復興を目指す「Pasco熊本県プロジェクト」では商品売上の一部が熊本県に寄付された。
© 敷島製パン株式会社
そもそも同社が創業したきっかけも、第一次世界大戦後に起きた食糧難だった。
創業者・盛田善平の “食糧難に苦しむ人びとを救いたい”という想いから始まった。“社会のために” という原点は今も経営理念として掲げられ、社員の意識に根づいている。
敷島製パン
愛知県名古屋市に本社を構える、1920年創業の製パン会社。 自社ブランド〈Pasco〉で知られ、主力商品に「超熟」シリーズなど。関東、中部、関西を中心に、 グループ企業含め全国12の製造工場を展開。
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2011年3月11日、東日本大震災の発生からほどなくして、当時の社長・白石茂から発せられたのは、「地域のために、パンの供給体制を整えなさい」というひと声だった。その指示からわずか3日間で、在庫分を含めた約30万個ものパンを岩手、宮城の被災地に届けた。
東日本大震災後、工場に駆けつけた最低限の人数でコッペパンの製造にあたった。
© 白石食品工業株式会社
仙台と盛岡にある製造工場は、停電と断水で工場は機能が停止。電話も繫がらない状態がつづいた。それでも、地元の企業などと連携を図りながら、手探り状態で稼働への準備を進めた。再開させたのは、地震から4日後だった。
工場に残っていた生地を撤去する様子。
© 白石食品工業株式会社
設備環境や原料、包材が限られるなかでまず作られたのはコッペパン。「製品表示のシールも必要最低限で。とにかく、作れるものを必要な人に届けることを第一に考えました」と当時の状況を知る大久保勲さん。出勤することができた社員が団結して作業にあたり、“がんばれ!いわて”のメッセージをシールに印字してパンを送り出した。
当時のコッペパンの製造現場。稼働したのは1ラインだけ。
© 白石食品工業株式会社
当時、営業本部・営業企画課だった小田原謙治さんは、実際に避難所でパンを受け取る人の姿や、積み上がるパンの箱を目の当たりにした。そこで、パンがもつ力を感じさせられたという。「子どもからお年寄りまで、どんな人にも受け入れてもらえる存在なんだと再認識して。とくに非常時は、たんなる食料品の枠を越えて、命を繫ぐ “普遍的な食” としての力が備わっている。だからこそ、製パン会社として、どんな局面でもパンを届けたいと思っています」
白石食品工業
岩手県盛岡市に本社を置き、東北6県を主な販売エリアとする製パン会社。〈シライシパン〉 のブランド名で親しまれ、200種類 以上の商品を展開する。
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2024年元日、石川県能登半島を襲った地震。被害を受けた輪島の町でいち早く営業を再開したベーカリーが、輪島出身の鹿島芳朗さんが営む〈ラポール デュ パン〉だ。「レストランを営む同級生が『ピザ焼こうかな』って言い出したんです。断水していたけど、給水所の水を使えるって。やってみたら、本当に焼けたんです。そこで自分にもできることがあると気づかされて、再開へ動き出しました」
被害を受けた輪島の名所・朝市通り。
© 令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)
営業を再開したのは震災から1カ月半後だった。厳しい北陸の冬空の下、給水所にできた列に並んで確保した水と年末に入荷していた限られた材料で焼き上げたのは、あんパンや食パン、バターロールなどシンプルなもの。「思い通りの仕上がりにはならなかったけど、パンを焼く香りが『落ち着く』って喜んでくれました」と鹿島さん。
タンクに詰めた水で調理を行った。
© ラポール デュ パン
当時は缶詰やレトルト食品などの非常食に支えられながら過ごしていた鹿島さん。そんな状況下で営業を再開するなか、感じることもあったという。「支援物資は本当にありがたくて、それがなかったら生活すら成り立たなかった。でも、先行きの見えない非日常の生活に不安や疲労を感じることもあって……。自分のお金で好きなパンを買う行為は、実は当たり前じゃなくて、日常を取り戻す第一歩だと感じたんです。だからこそ、輪島でパンを焼くことに意味がありますし、これからもつづけたいと思っています」
お店を切り盛りする鹿島芳朗さんと妻の美江さん。
© ラポール デュ パン
ラポール デュ パン
石川県輪島市で2015年に開業したブーランジェリー。店名の由来はフランス語で「人とのつながり」から。バゲットやクロワッサン、食パンが人気商品。
営業時間
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大のパン好きで、なかでも食パンに目がない、俳優の小関裕太さん。小関さんがかねて訪れたいと言っていた、浅草の名店〈パンのペリカン〉で食パンを食べながら、パンのある暮らしについて訊いてみた。
Photography:Shohei Hayashi Styling:Satoshi Yoshimoto Hair & make-up:Mariko Sasaki Text:Kei Kawaura Edit:Maki Tsuga
写真好きな小関さん。自分のカメラをバッグから取り出して、食パンをパシャリ。
田原町駅から徒歩3分ほど、赤いファサードが目印の〈パンのペリカン〉。お昼すぎに売り切れてしまうことも多いので、電話や店頭で予約を入れておくのがよい。 毎朝3時頃から、5、6人の職人が交代でパンを作る。毎日400本以上の食パンを焼いているそう。
焼きたての食パンを1斤丸ごと抱え、浅草の街をうれしそうに歩く小関さん。
浅草にある1942年創業の老舗パン店〈パンのペリカン〉。
販売されているメニューは食パンとロールパンのみ。朝8時にシャッターが開くとともにお店を訪れたのが、食パン好きで知られる俳優の小関裕太さんだ。
列に並んで、焼きたての食パンを購入。その場で何もつけずに食パンをちぎって、ひと口、ふた口……止まらない!
「以前にもペリカンのパンを食べたことはあったけど、お店を訪れたのは今日が初。工房を覗かせてもらったら、焼きたてのパンが並んだ棚が熱々で。職人さんが作っている躍動感と、工房に充満しているふくよかな香りに高揚しました。お店の外に一歩出て、思わずその場で食パンをかじってみたんですが、ほんのり爽やかで甘い香りが口に溢れて、とっても幸せでした!」
青いペリカン印の食パンは、もっちり重量系。緑のペリカンは、小さめでぎゅっと身が詰まっている。ほかに水色の山型ペリカンもあって、こちらは1日1度しか焼かないので、出合えたらラッキー。
小関さんを唸らせる、ペリカンの食パン。どんなこだわりがあるのか、店主に訊いてみた。
「『自分に10の力があるとして、その力を出し切るのでは、1や2の力で集中したほうがいいものができる』。そんな2代目の祖父の考え方が好きだったので、品数を増やさずにパンを焼いています」と4代目店主の渡辺陸さん。小関さんもペリカンの秘密に納得した様子だ。
小関さんが食パンを好きになったきっかけは何だったのだろう?
「中学生の頃に舞台のお仕事で合宿をしていたとき、お昼ご飯まで待てないほどお腹が空いてしまって、コンビニで手に取ったのが食パンでした。そのときに『食パンって焼かなくても、こんなにおいしかったんだ』って衝撃で。嚙めば嚙むだけ香ばしさが際立つ食パンのミミと、白い部分は塩味と甘みが両方ともあるのがたまらなくて」
おいしいパンを求めて、旅に出ることもあるという。
「食パン特集の雑誌を買って、行ってみたいパン屋をスマホにメモしています。旅が好きで、仕事の合間にプライベートで海外に行くこともあるんですが、以前、フランスに行ったときは、朝からクロワッサンを食べたり、オペラ座の近くを歩いていて気になったパン屋に入ってハムとチーズを挟んだジャンボンブールを食べたりしていました。パンってその土地ならではの空気を感じられるものですよね。食パンは、やっぱり日本のものが一番好きだけど」とにっこり。
パンは小関さんにとってどんな存在なのだろう。
「パンは癒やし。僕にとって、パンは主食じゃなくて、ご褒美のようなもの。味はもちろん、身体をほぐすようなパンの香りも好きで、一息つきたいときにコーヒーと一緒によく食べています。それにパンをきっかけに、どこかに旅をしたり街歩きが楽しくなったりする。パンが世界を広げてくれている感じがしますね」
俳優
小関裕太(こせき・ゆうた)
1995年、東京生まれ。子役として芸能活動をスタート。その後、ミュージカルや舞台、ドラマや映画に出演。 2025年8、9月に、鴻上尚史作の舞台「サヨナラ ソング─帰ってきた鶴─」では主演を務める。
1995年、東京生まれ。子役として芸能活動をスタート。その後、ミュージカルや舞台、ドラマや映画に出演。 2025年8、9月に、鴻上尚史作の舞台「サヨナラ ソング─帰ってきた鶴─」では主演を務める。
パンのペリカン・ペリカンカフェ
1942年創業、浅草にあるベーカリー〈パンのペリカン〉と、2017年に開店した〈ペリカンカフェ〉。 全国のパン好きに愛される名店。ベーカリーか ら歩いて3分ほどのところにあるカフェでは、ペ リカンのパンを使用した炭焼きトーストやチーズ トースト、フルーツサンドなどが楽しめる。
●パンのペリカン
住所|東京都台東区寿4-7-4
●ペリカンカフェ
Instagram|@asakusapelicancafe