5月29日は
オーストリア=ハンガリー帝国が誕生した日

5月29日は
オーストリア=ハンガリー帝国が誕生した日

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2025.05.29

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5月29日は、オーストリア=ハンガリー帝国が誕生した日!
 
1867年5月29日、ヨーロッパ中部に広がる多民族国家・オーストリア帝国が大きな転換点を迎えました。この日、オーストリアとハンガリーとの間で「アウスグライヒ(Ausgleich=妥協)」と呼ばれる妥結が成立。オーストリア=ハンガリー帝国という新たな国家体制が誕生しました。

ハンガリー王に即位するフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート妃。

この二重帝国は、19世紀のヨーロッパでも極めて特異な政治体制であり、約半世紀にわたって中東欧地域の大国として存在感を放ちました。その誕生の背景には、19世紀のヨーロッパを揺るがしたナショナリズムの高まりと、ハプスブルク家が直面した統治の危機が深く関係しています。
 
当時のオーストリア帝国は、ドイツ系、ハンガリー系、チェコ系、スロバキア系、南スラブ系、ルーマニア系など、非常に多様な民族を内包していました。多民族を一手に統治しつづけるハプスブルク家でしたが、1848年の「諸国民の春(民族革命)」によって支配構造が大きく揺らぎます。とりわけハンガリーでは、独立を求める大規模な反乱が発生。オーストリアは一時的にロシアの軍事支援を受けて鎮圧しましたが、ハンガリー人の間に芽生えた不信感は消えませんでした。
 
その後も帝国内の統治は困難を極め、1866年にはプロイセン=オーストリア戦争で、プロイセンに敗北。ドイツ諸邦の盟主としての地位を失ったことで、オーストリアは新たな道を模索する必要に迫られました。この窮地において、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が選んだのが、ハンガリーとの「妥協」による共存体制の構築だったのです。

ドナウ川越しに見えるハンガリー国会議事堂。

© Felix König

「アウスグライヒ」により、オーストリア帝国とハンガリー王国が対等な立場で一人の皇帝のもとに共存する二重君主制が始まります。これは、軍事・外交・通貨といった国家の中枢は共通の機関で運営される一方、オーストリアとハンガリーはそれぞれ独自の議会・憲法・行政制度を保持するという、極めて複雑な統治体制でした。これにより、フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝であると同時に、ハンガリー国王としても正式に戴冠することとなります。
 
この体制は、ハンガリー側にある程度の自治権を与えることで、革命の再発を防ぎ、帝国の安定を取り戻すことを目的としていました。政治的妥協の産物でありながら、この制度は結果的に1918年まで半世紀以上つづき、経済・文化の両面で一定の成果を上げます。
 
なかでもウィーンやブダペストといった都市は急速な発展を遂げ、音楽・美術・建築・哲学・精神分析など、欧州近代文化の中心地としても注目されるように。マーラー、フロイトなど、多くの才能がこの帝国の懐から生まれました。

ブダペストの中心部にそびえる聖イシュトヴァーン大聖堂。

© Prolete

現在のウィーン大学。

© Hubertl

しかし同時に、体制に組み込まれなかった民族にとっては、この「妥協」は不満の種でもありました。
 
そして1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントがサラエヴォでセルビア系青年によって暗殺され、これを契機に第一次世界大戦が勃発。帝国は戦争の混乱のなか、各地で民族蜂起を受け、1918年に崩壊し、オーストリア=ハンガリー帝国は歴史に幕を下ろしました。

ウィーンの街角で開かれていたファーマーズマーケット。

© Hubertl

かつて帝国の中心であったオーストリアとハンガリーは、現在ではともにEU(欧州連合)の加盟国として、歴史的な絆と独自の文化を維持しつつ、ヨーロッパ統合の一翼を担っています。オーストリアはウィーンを中心に音楽・芸術の都として世界的に知られ、安定した福祉国家を構築。一方のハンガリーは、政治的には保守色が強まりつつも、ブダペストを中心とする観光資源や歴史的遺産を活かし、東欧と西欧をつなぐ要所として注目されています。
 
オーストリア=ハンガリー帝国という一つの共存のかたちは、今なおその名残を都市景観や文化、そして両国民の記憶の中に留めながら、21世紀のヨーロッパに新たな形で息づいているのです。

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Yayoi Arimoto

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