連載:NIPPONの国立公園
National Parks of Japan.
連載:NIPPONの国立公園
TRAVEL & THINK EARTH
2025.07.04
6 min read
炎が山を走り、黒く焦がしていく。その風景を見たくて、野焼きの季節に阿蘇を訪れた。
火山に抱かれた草原、湧き出す水と温泉─豊かな自然にあふれる阿蘇で、「野を焼く」とはどんな営みなのだろう。阿蘇くじゅう国立公園の取材記事の前編をどうぞ。
Photo : Isao Nishiyama
Text:Nobuko Sugawara(TRANSIT)
阿蘇市蔵原で放牧されている牛。背後に見えるのは阿蘇五岳のひとつ、杵島岳。
まるで空のなかを走っているようだ。阿蘇の外輪山の山頂を車で走りながらそう思った。雲が近く、視界を遮るものがない。車窓の外には黒く焼けた草原や黄金色の枯れススキが流れていく。野焼きを終えた場所と、野焼きを待つ場所とが次々に現れる。色の少ないこの草原の世界は、いま、春を迎える準備期間にある。
阿蘇くじゅう国立公園の魅力は、大カルデラを抱く阿蘇山と、その北に連なるくじゅう連山などの火山群、そして周辺に広がる雄大ななだらかな草原だ。広大な若草色の草原に、のんびりと草を喰む牛や馬の姿をイメージする人も多いだろう。平安時代の『延喜式』に軍馬が放牧されていたと記されているように、1000年以上前からこの草原は存在していたと考えられている。牛や馬を放牧し、草を刈り取る。刈った草は、田畑の肥料や家畜の飼料、茅葺き屋根の材料など、人びとの暮らしにさまざまに利用されてきた。そしてこの草原を維持するために、毎年春を前にして行われるのが「野焼き」なのだ。
「今週末は天気が崩れるので、野焼きは延期になりそうです」。スケジュール調整を3度繰り返し、3月末に阿蘇に降り立った。厚い雲が空を覆っていた。今日は無事に実施されるだろうか。野焼きは自然の機嫌次第、改めて、思い知らされた。
樅木牧野組合員の佐藤文博さんはこの道44年の牛農家。
この日訪れたのは、阿蘇市波野地区の南越牧野組合。到着したときにはすでに、丘の半分まで野焼きが進んでいた。地元の牧野組合とともに、耐火服に身を包んだボランティアたちが、ジェットシューターや火消し棒を使って、飛び火や残り火を丁寧に消していく。風が吹くと火は一気に広がり、ぶわっと赤く燃えあがる。その迫力に息を呑むと同時に、乾燥と強風による「山火事」が日本各地で深刻なニュースになっていた時期でもあり、現場には緊張感が漂っていた。火消しを手伝うボランティアの一人は、「ここの牧野さんは慎重に野焼きを行うのでとても安心なんです」と教えてくれた。その“牧野さん” とは、10年前に愛知県から移住して、牛の繁殖農家となった石川友也さん。先輩農家の引退後、神楽仲間の友人たちやボランティアの力を借りながら、今では組合長を務めている。
「だいぶ慣れてきましたが、やはりまだ手探りです。もっと効率よくやったほうがいいと言われることもありますが、そこは考えずに、安全・安心を最優先しています。野焼きは大変ですが、大切な牛の餌のためですからね」
火が燃え上がるのは一瞬。斜面の上のほうから火を入れるなど、火をコントロールをしながら野焼きを行う。経験も高度な技術も必要。
枯れ草を燃やすことで害虫が駆除され、春の新たな芽吹きが促される。草が生え変わった草原に牛馬が放牧され、栄養価の高い草を食べて育つ。野焼きを行うことは草原を維持するしくみそのものであり、同時に畜産農家を支える営みなのだ。
阿蘇の草原は約150の牧野組合によって管理されており、野焼きも牧野組合ごとに実施されている。火を入れる「火引き係」と、それを追って火を消す「火消し係」の共同作業だ。火をコントロールするためには秋からの事前準備が不可欠で、「輪地切ぎり」という作業で幅10mほど草を刈り取って「防火帯」を作っておく。春の野焼きは、こうした地道な準備作業のうえに成り立つものなのだ。
野焼きには、入念な準備と綿密な管理、地形の把握、気候と火の動きを読む力が必要だ。経験値がものをいう世界だが、高齢化や畜産業の衰退により、牧野組合の後継者不足が進んでいる。九州は雨も多く温暖なため、放っておけばすぐに草が伸び、雑木林や森へと変わってしまう。阿蘇の草原は100年の間に半減しており、このままでは消えてしまう可能性があるのだ。
これまで同様、牧野組合のみで野焼きや輪地切りを行うのが理想だが、人手不足でボランティアの力を借りることも増えた。ただし、野焼きにおいて、火を入れる火引き係は牧野の組合員のみというルールがある。草原を守るためなら、いっそすべてボランティアでやればいいのでは? そう単純な考えが浮かぶのだが、ボランティアの取りまとめを行う公益財団法人阿蘇グリーンストックの専務理事増井太樹さんはこう答える。
「私たちの活動の目的は、阿蘇の草原を守ること。火引きもグリーンストックが行えばいいという声があることは承知していますが、阿蘇の草原を守るには牧野組合の力が欠かせません。私たちはあくまで“野焼き支援ボランティア” として、牧野さんたちのサポートに徹します。牧野さんにとって草原維持が “手間・負担” でなく、阿蘇の“価値”だと感じてもらえるような仕組みをつくりたい。理想は、地元の方々が草原を地域の財産としてとらえ、草原をもとにした経済が回るしくみをつくることなんです」
本記事はTRANSIT68号より再編集してお届けしました。
日本の国立公園
北から南まで、日本に散らばる国立公園をTRANSIT編集部が旅した連載です。
日本の国立公園について知りたい、旅したいと思ったら、こちらも参考に。
環境省・日本の国立公園