連載:NIPPONの国立公園

水の記憶を辿りに、吉野熊野へ

National Parks of Japan.

連載:NIPPONの国立公園

吉野熊野公園(前編)
熊野の記憶を辿る川下り

TRAVEL & THINK EARTH

2024.10.17

10 min read

三重、奈良、和歌山の3県にまたがる吉野熊野国立公園。
信仰を抱く山と川、そして黒潮が流れる紀伊半島の沿岸部に、絶えず流れつづけた水の記憶がある。参道としての川、復活した筏師、くじらの町を訪ねた。吉野熊野を巡る旅を、前編「古と今をつなぐ水」、後編「400年つづく『くじらの町』太地町」に分けてお届けします。

Photo : Kazuho Maruo

Text:Nobuko Sugawara Cooperation:Wakayama Tourism Federation

貴族たちの優雅な川舟下り

太陽の光がきらきらと反射し、穏やかな速度で 流れる熊野川を、竹笠をかぶり、船頭が漕ぐ小舟に揺られ、語り部の案内と篠笛を聞きながら下っていく。古きスタイルの川舟下りという点だけをみれば珍しくないかもしれないが、熊野川は世界 遺産唯一の“川の” 熊野古道と登録された「参詣道」である。

熊野は神話の時代から神々のいる特別な地域と考えられ、自然信仰に根ざした神道、中国から伝来した仏教、その両者が結びついた修験道など、多様な信仰形態が育まれていた。熊野三山、高野山、吉野・大峯という三つの霊場と、それらを結ぶ参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されたのは2004年7月のこと。2024年は20周年のメモリアルイヤーである。

熊野本宮大社の旧社地大おお斎ゆの原はら。鳥居の高さは日本一で、33.9mを誇る。 

川の古道の終着地に近い、新宮にある熊野速玉大社。2024年12月まで、高野山、熊野の2霊場を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録20周年を記念した、「聖地リゾート!!!!! 和歌山」キャンペーンでさまざまなイベントが開催されている。

熊野詣は平安時代から鎌倉時代にかけて賑わい、後白河法皇や後鳥羽上皇など、皇族や貴族が 都から熊野を目指したといわれている。熊野は、一度死んで生まれ変わるという「蘇りの聖地」と考えられ、過去・現在・未来の救済と利益を司る熊野三山をめぐることで、過去・現在・未来の安穏が与えられるとされた。古道には一部険しい山道があり、皇族や貴族は、熊野本宮大社の参拝後、川舟に乗って熊野川を下り、熊野速玉大社へ向かった。それが川の参詣道と呼ばれるものである。

神倉神社。熊野の神々が最初に降臨された場所で、御神体でもあるゴトビキ岩が鎮座する。

20年前まで、この地域にそんな古道があったなんて知らなかったと話してくれたのは、この川舟下りで語り部として約90分間案内してくれた西浦康代さんだ。生まれは和歌山県の新宮だが長年東京で過ごし、結婚を機に戻ったのが2000年のこと。世界遺産登録が目前の時期に、「あなたも熊野古道のガイドになりませんか」という市役所の募集を見たのがきっかけだったという。「1000年も前からの信仰の道、また旅人が通った道がこんな近くにあったなんてと驚きました。けれど勉強してみたらおもしろくて。熊野古道には山と川のルートがあるので、どちらもガイドできるようになりたいと思ったんです」

この道20年の西浦康代さん。最近は海外からの観光客が増えたため、英語と日本語で案内するようになった。

何日もかけて古道を歩き、難行苦行を乗り越えた皇族や貴族たちが、旅の終盤、川舟に腰を落ち 着けたとき、安堵したであろうことは想像に難くない。同様に、今も川舟下りは山の難所を乗り越えた人に与えられたご褒美なのかもしれない。「熊野川は、多くの支流を包みこむ母のような川。釣鐘石や布引の滝などいくつも見どころがありますが、珍しい鳥や、ニホンカモシカの姿が見えたらそちらをみなさんに紹介するようにしています」
古の優雅な人たちを想像しながら、終着点に降り立つ。さあ、熊野速玉大社へと向かおう。

復活! 600年前の筏下り

新宮市から車で約1時間。昨日下った熊野川を逆流し、168号線を北へ行く。二股に分かれた熊野川を北山川のほうへ進むと「瀞峡」があらわれる。吉野熊野国立公園内にある国の特別名勝で、和歌山、三重、奈良にまたがり、大峰・大台ヶ原を源流とする大渓谷。急峻な渓谷と、濃いブルーを悠々とかきわける川舟の姿にしばし見惚れる。

瀞峡からさらに車を走らせると、奈良と三重の県境にある「和歌山県北山村」に入る。人口400人にも満たない小さな村で、長く林業で栄えた歴史をもつ全国でも珍しい県の“飛び地” である。北山村の木材は豊臣秀吉や徳川家康にも認められたほどで、その木材を下流の新宮市へ運送するために北山川が使われた。その運び手がこの村の“筏師たち” であった。

北山村の木材を筏で運んでいた時代、新宮まで運び終わった筏師は、櫂や棹をかついで歩いて村へ帰っていた。その山道を「筏師の道」という。

しかし近代化によりトラック輸送が主流になり、電力エネルギー確保の国策から大規模なダム開発が行われ、北山川の木材流しは、1963年には筏師たちの仕事とともに終焉を迎えてしまった。「600年もつづいた筏師の技術を絶やしてはいけないと、村の人たちは筏下りを観光資源として1979年に復活させました。当時小学生だった私は、大学を出て就職して大阪で会社員をやっていましたが、自然が恋しくなり、筏師の募集を見てUターンを決意したんです」と語るのは、北山村出身で観光筏師集団をまとめる山本正幸さんだ。

筏を組む技術、筏を流す技術のふたつを習得し、観光客を安全に楽しませるようになるには少なくとも3年は修業が必要。そんな筏下りを体験できる夏にやってきたのだから、やらない理由がない。お尻まで確実に濡れるので着替えが必須との注意事項に少し緊張しつつ、筏の前方に座った。全長約30mの筏に約20人の乗客と4人の筏師。言わずもがな、筏を動かすのは人力のみ。筏師は前へ後ろへ自由自在に動き、岩場に足をかけたり、石にロープをかけたり、呼吸を合わせて操縦する。次から次に岩や急流の難所が立ちはだかり、そのたびに彼らは櫂を使って全身で舵を切る。

山本正幸さん。現在15人いる北山村の観光筏師をまとめ、後進の育成にも力を注いでいる。

600年ものあいだ、筏師たちはどのくらいの木材をこの川で運んだのだろう。その重みとともに、一度途絶えた高度な技術を復活させた人たちの本気を思う。私たちは筏師の口上通りに足を水につけたり、激流のなか立ち上がったり座ったりし、ウォーターアトラクションに乗ったみたいに歓声を上げた。筏師の凛々しさを前に、この川の道を生かしつづける奇跡を見た。

大きな岩やいくつもの急流、90度のカーブなど、激流を筏師たちはチームプレイで捌く。筏師は命の危険をともなうが稼ぎもよく、全盛期には500人もいたという。

北山村が飛び地となった背景は、明治時代の廃藩置県で新宮が和歌山に編入された際、地理的には奈良県に属するところを新宮の木材業者との関係性もあったため和歌山県に編入されたことにある。

本記事はTRANSIT65号より再編集してお届けしました。

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日本の国立公園

北から南まで、日本に散らばる国立公園をTRANSIT編集部が旅した連載です。
日本の国立公園について知りたい、旅したいと思ったら、こちらも参考に。

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Kei Taniguchi

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