バルト三国を構成する国のひとつであるエストニアでは、生活や医療のなかで、古くからハーブが利用されてきた。とくに伝統的な民間療法としてハーブを活用した記録は多く残っており、その数はヨーロッパのなかでもほかに例がないほど。 南エストニアのヴォル地方に暮らし、伝統のスモークサウナを営み、ハーブ文化にも詳しいカイリ・アースペレさんに、エストニア人のハーブの知恵や歴史について聞いた。
Photo : Kairi Aaspere
Text:Anna Hashimoto Cooperation:Kairi Aaspere
古代文明や神話、旧約聖書にも登場するハーブは、大昔から人びとの身近にある存在だ。中世ヨーロッパでは貴族の嗜好品として好まれ、また宗教施設としてだけでなく医療機関としても機能した修道院でも治療に使われていた。
ヨーロッパ各地でハーブを使った民間療法があるが、その知識の多くは大衆医学の本や薬局方(やっきょくほう:医薬品に関する品質規格書)などの文書ベースで記録されている。文字として残り、現代のヨーロッパで共有されているハーブに関する知識は、土着の知恵と他国の医学の知識が統合されたものであり、その地域だけにあった純粋な知恵というものはあまり多く残っていない。
しかし、エストニアは例外で、ハーブを使った伝統的な民間療法の記録が多く残る。その理由として第一に、エストニアでは19世紀末まで地元の言語で出版された本や新聞がほどんどなかったため、ほかのヨーロッパ地域の文献による影響をあまり受けていないということが挙げられる。キリスト教がヨーロッパで最後に伝わった辺境の地だからこそ、書物の影響を受けにくかったのだ。では文書に残っていないのに、エストニア国内でどのように受け継がれたのか? ずばりいうと、口承だ。
その口承で受け継がれてきた情報に注目した人物がいた。民族運動家のヤコプ・フルトだ。1888年、フルトはエストニアの人びとに向けて、祖先の生活や習慣を解釈するのに役立つ「古物」(フォークロア)の収集を呼びかけた。この頃のエストニアは、ロシア帝国の支配が強まったことの反動や、東ヨーロッパで起こった民族運動の波を受けて、民族意識が高まっていた時代。フルトの活動以外でも、地域の伝統文化の収集が盛んに行われていた。
フルトの呼びかけに、1,100人以上の調査員が応え、1906年までに約11万ページに及ぶ情報が集まった。そのうち民俗信仰や習慣に関するおよそ7万件。その記録の一部が、民間療法に関連している。
つまりこれは、どこにも文書としては残されず、口承で伝えられてきたエストニアの伝統知を聞き書きした大プロジェクト。テーマが多方面に広がり、地域ごとに薬草の呼び方が違うなど体系化こそ難しいものの、現在でもフルトの資料はさまざまな研究の糸口となっている。1927年には「Estonian Folklore Archives(エストニア民間伝承史料館)」が設立され、今日も口承で受け継がれてきた情報が集積されつづけている。
地元の伝統が口承で次の世代へと繋がれ、ほかの地域の知識に影響されてこなかったエストニアのハーブの知恵は、現代のエストニア人の生活にも浸透している。 たとえば、子どもの頃にボダイジュの花でお茶を飲み、春にはイラクサのスープを飲んだなど、ハーブにまつわる記憶がある人は多い。また、おじいさんやおばあさんの家にはたいてい何種類かのハーブが常備され、チンキ剤(飲んだり塗ったりするハーブの液剤)が置かれている。
エストニア人のなかには、ハーブの知識や使い方を熟知した人が多い。彼らは、自然と真のつながりをもち、自然が人間を助け、癒やしてくれることを知り、自然が与えてくれるものに敬意を払って生活している。感謝をもって森に入り、自然に害を与えないように植物を採取し、そして採りすぎない方法を知っている。一部の地域では、ハーブやキノコ、ベリーなど森のものをいただく代わりに、自然に還りやすい身近なもの(たとえば黒パンを一切れなど)を森のなかに置いて帰る風習もある。
森のなかで暮らし、自然の摂理を熟知した賢者のような存在は昔からいて、ときに神秘的な力で人々の病などを治癒してきた。今でもエストニアには、自然とのつながりが強い人がいる。
南エストニアのヴォル地方に残る、ユネスコ無形文化遺産に登録されたスモークサウナの文化も、ハーブが密接に関係している。地元の呼び方で、「サンナナーネ(サウナの女性という意味だが、男性にも同じ役割を持つ人がいる)」と呼ばれる人が執り行う伝統的なサウナの儀式には、ハーブなどを用いたウィスクという植物の束が用いられる。また、サンナナーネは、儀式を受ける人たちの精神的・身体的な状況に合わせて調合したハーブティーをサウナの前後に出したり、サウナフードと呼ばれる間食を用意したりもする。
ヴォルで祖父から受け継いだサウナを復活させ、エストニア国内外からのゲストにサウナの儀式を施すカイリ・アースペレさんに、さまざまな不調に効く伝統的なハーブの活用法を教えてもらった。
エストニアでの一般的なハーブ活用は、第一にハーブティーとして飲むことだが、ほかにも用途は多い。ハーブをアルコールに漬け込んで成分を抽出したものを、消毒液や化粧水、入浴剤として使うこともある。また、お香のように焚いて使うことも。エストニアでは、部屋にある汚れ(実際の汚れではなく、”悪い気”を感じるところ)の近くでジェニパーやタイム、イソツツジなどを焚くことによって、負のエネルギーや病気などから身を守り、空間を浄化させられると考えられている。
また、症状別では、下記のアドバイスを実践してみよう。
恐怖は免疫システムを蝕むものであり、恐怖によって心と体はストレスを受け、自分自身を守ろうとすることに多くのエネルギーを必要とする。睡眠時間を十分にとるためには、その就寝前1時間をリラックスして過ごすことが重要。スマホやPCは使用せず、できれば少し散歩をしたあと、睡眠障害に効果のあるカモミールやレモンバーム、ボダイジュの花のハーブティーを飲む。
*カモミールは「平滑筋」と呼ばれる筋肉の組織を和らげ、腹痛や生理痛に効果がある。レモンバームは神経疲労や不安、軽度の抑うつを鎮静させる。ボダイジュ(リンデン)の花は、神経系の鎮静に優れるが、大量摂取すると興奮作用をもたらすため蒸らしすぎに注意。
心配ごとが頭から離れなかったり、なんとなく不安を感じてしまったりするときは、抗うつ効果がある強力なハーブ、セントジョンズワートをハーブティーとして飲む、またはティンクチャーやオイルとして使うのがオススメ。また、エストニアでは、自然のどこかに散歩に行って湧き水で目を洗うことが鬱病にいいとされている。
私たちの体というのは非常に賢く、体が心に伝えようとしている兆候を読み取ることができれば自分自身を助けることができる。現代の生活は、仕事をはじめ多くの「責任」にとらわれすぎているが、エストニアでは「あえてぼうっとする時間をとらなくてはならない」という賢人の言葉が知られている。たとえば、外で焚き火をして、ただ火を見てゆっくりと過ごし、意識の下に潜り込むような時間を作ることも大切だ。
ストレスが溜まっているときは、自分がどのような状態にあるのかを探るためにも、直感で美味しいと感じるハーブティーを飲むことが重要。マグワートは、安眠やリラックス効果をもたらすので、とくにおすすめだ。
とくに冬の時期に乾燥してしまう肌には、カレンデュラなどの天然ハーブのバームがおすすめ。かゆみやかさつきにはトウヒの樹脂でできたバームがよい。トウヒのバームは昔のエストニアの家庭には常備されていた。抗菌作用があるため、小さな傷に使うと治りがよい。
*カレンデュラは殺菌力や消炎力に優れ、傷ついた皮膚や粘膜を修復し、保護する働きをもつ。トウヒの樹脂は日本では簡単に手に入らないかもしれないが、フィンランドのコスメにも一部取り扱いがあるので、北欧系コスメで探してみるのも手だ。
生理痛やPMSといった女性特有の悩みに効くハーブは、アルケミラモリスと前出のセントジョンズワート。ハーブティーにして飲み、体を温めることが大切。
*アルケミラモリスは生理不順や生理痛に効果がある。タンニンを多く含み、収斂作用がある。
エストニアの民間療法の伝統を受け継ぐハーブの活用法。 古より先人たちから伝えられた知恵を、日々の生活に取り入れてみるのもいいかもしれない。
カイリ・アースペレ
南エストニア・ヴォル地方生まれ。幼少期からヴォル地方のユニークなサウナカルチャーに触れ、サウナマスターとして国内外のビジターにサウナの施術を行う。2020年の夏、祖父のスモークサウナを改修し、〈Päivora suitsusaun〉をオープンさせた。
南エストニア・ヴォル地方生まれ。幼少期からヴォル地方のユニークなサウナカルチャーに触れ、サウナマスターとして国内外のビジターにサウナの施術を行う。2020年の夏、祖父のスモークサウナを改修し、〈Päivora suitsusaun〉をオープンさせた。