世界最大規模のブナの原生林を有し、世界自然遺産にも登録されている、青森・秋田の「白神山地」。人を寄せつけないような神々しさをもちつつ、一方で、その周縁には山の恩恵をたっぷり受けた人の営みがある。そんな白神山地を、青森県側から「最奥」「森」「町」「海」の4つのレイヤーに分けて“白神巡礼”をしていく。
「白神巡礼/最奥編」では、主峰・白神岳へ登り、ブナのファザーツリーに出合うため、白神山地を巡った。
Photo : Yoma Funabashi
Text:Maki Tsuga(TRANSIT)
Index
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What's
白神山地?
青森県から秋田県にまたがる、約13万ha、標高200~1250mの山岳地帯の総称で、約8000年前の原始のブナ林の姿を今に残すとされている。1993年に日本で初めての世界自然遺産として屋久島とともに登録される。白神山地の中心部の約17,000haが世界遺産エリアとなっていて、環境保全のために入山禁止となっている核心地域と、人の立ち入りができる緩衝地域がある。
人の影響をほとんど受けていない世界最大級のブナの原生林。地球上でも稀有な場所として、1993年に日本で初めて世界自然遺産に登録された白神山地。
中学生の頃だっただろうか、教科書で「白神山地」の文字を目にしたときに感じた、冷たく澄んだ空気。そして汚してはいけないような高潔さと、人を寄せつけないような厳しさ。以来、そんな秘密めいた白神をいつか肌で感じてみたいと思っていた。
実際、白神山地への立ち入りには制限がある。人が入れるのは「緩衝地域」まで。それより奥の「核心地域」は基本的には立ち入り禁止*。原生の姿を次世代に残していくために、資源採集や新たに人工物をつくることは固く禁じられている。
*学術調査や登山のために、核心地域へ入山する場合もある。規制がはじまった当初は許可制だったが、現在は届出制になっている。
西目屋村の〈白神山地ビジターセンター〉に展示されていたジオラマ。険しい白神山地の山々が海の間際までせり出している様子がわかる。
白神山地をどうやって歩こうかと考えていたときに連絡をとったのが、青森を拠点に山案内をしている白神山地ガイド会の渡邊禎仁(ていじ)さんだった。
「白神山地の奥まで見たい? それなら深浦町の白神岳に登るといいですよ。山の頂上からは白神山地の核心地域が見渡せます。山歩きに慣れていなくても1日あれば登れます。さらにもう1日あれば、西目屋村のファザーツリーまで歩くのもいいですね」と渡邊さん。電話でルートの相談をして、10月末にガイドの予約を取りつける。そうして白神山地の旅を、白神岳からはじめることにした。
青森県側の白神山地は、県の南西部にある深浦町、鰺ヶ沢町、西目屋村に位置している。東京から空路で1時間少々、空港から車で2時間ほどかけて深浦町に入る。白神山地まで時間はかかるけれど、その遠さが旅の高揚感にもつながる。
白神岳の登山口でガイドの八木橋綱三さんと合流。案内板の地図の濃い緑色の部分が白神山地の核心地域、薄緑色が緩衝地域にあたる。
ついに白神岳がある青森県深浦町へ到着。
残暑がつづく東京と比べると、10月末の青森はやはり肌寒くて、長袖の上着が必要だ。青森に着いたその日は、深浦町の旅館で早々に就寝。翌朝6時半に白神岳の登山口に白神山地ガイド会の八木橋綱三さんと車で集合した。駐車場で軽く朝食をすませて、山用のトレッキングシューズに履き替える。背中のリュックには、昼食用のおにぎり、行動食のナッツバー、水筒、カメラを詰める。
八木橋さんと入山の基本ルールや行程を確認する。歩道から外れたルートを歩かないこと。ゴミは持ち帰ること。動植物を採集しないこと。焚き火はしないこと。ペットを連れて行かないこと。トイレは登山前か頂上のトイレですませることなど(やむを得ない場合は埋める)。5、6時間かけて白神岳の山頂を目指し、お昼には登頂。また4、5時間かけてこの登山口に戻って来る予定だ。
いよいよ、白神岳への一歩を踏み出した。
落ち葉が敷き詰められた歩道を行く。登山口には少しばかり杉木立があったものの、30分ほど歩くと一気に樹木の種類が増えてくる。深緑色の葉と赤い肌をもつ貫禄たっぷりの青森ヒバ、キャラメルのような芳しい香りがしてきたら近くにカツラがある証拠、地面にはドングリやヤマグリが落ちている。気がつけば整備された木道は途切れ途切れになり、山登りというより木登りをするように、木の根っこを階段のようにして歩みを進めていく。
青森ヒバ。ヒバは抗菌・防腐効果があって、弘前城や中尊寺金色堂などの建材に使われてきた。同じ針葉樹のスギに比べると生育スピードが遅いこともあって希少価値が高い。
カツラの葉はハート形をしていて、イチョウのように黄色く紅葉する。キャラメルやみたらし団子を思わせるような甘い香りがする。
がさがさっという物音の先をたどると、ニホンザルと目が合った。群れで移動中。
ヤマグリを発見。小粒だけど甘くておいしい。
「ブナ林に入りました」と先頭を歩く八木橋さんが教えてくれた。はるか頭上にまで伸びた幹。灰色の木肌に明るい緑色の葉っぱ。そして地中へ左右へと縦横無尽に張り出した根っこ。さっきから足元で踏みしめていたのは、ブナの木の根だったようだ。ブナはこの立派な根で大地をがっしりとつかみ、地中から水をたっぷり吸い上げて20〜30mもの大木に育っていく。大雨が降ったときには、こうしたブナの保水力や地盤を固める根のおかげで、土砂崩れになりにくいという。
「里からブナ林が近いですね」とカメラを構えた写真家の船橋陽馬さんがひと言。船橋さんは写真家でもあり秋田県の根子集落でマタギもしていて、猟のためによく山に入るのだ。ふだん入る地元の山では、里から離れた標高の高い山中まで歩いていかないとブナ林までたどり着けないのだという。
里から近いといっても、山に慣れていない私にとっては、ここまで来るにもひと苦労。標高1,235mの白神岳は、中低山の部類に入るけれど、息を切らしながら登っていく。ところどころ急勾配もあって、木の根や歩道に備えつけられたロープを頼りに四つん這いになって登る。
「ほら、頂上が見えてきましたよ。あそこに小屋が見えるでしょ」と八木橋さん。見上げると豆粒ほどの三角形が雲の合間から見え隠れしている。歩道脇の看板には頂上まであと2kmとある。平地の2kmであれば20分ほどでたどり着けるけれど、30分後にあの頂上に立てる気がしない。白神岳、なかなかハードな道のりだ。
あとどれくらいですか? もう半分は来ましたね。ここまで来ればもうすぐですから。本当に本当ですか? もう難所は乗り切りましたよーーー。
そんな問答を八木橋さんと繰り返しながら歩く。辛いには辛いけれど、八木橋さんや船橋さんのように山慣れた人と歩くのは楽しさもある。
ナメコ。倒木に生えやすいと聞いて、つい足元を目で追ってしまう。
落ち葉の間に見つけた骨。カモシカの顎のよう。
「あ、ナメコが生えてる!」「やっぱりキノコでおいしいのは、マイタケ、サワモダシ(ナラタケ)、シメジ、それにやっぱりナメコ。これはケムリダケ。傘の部分を触ると、ほら胞子が出る。そっちの白いスギヒラタケは食べないでね」と八木橋さんが歩きながら解説してくれる。
「ここが最後の水場です。ひと休みしましょう」そう言って八木橋さんが立ち止まる。
小さな沢から水が勢いよく流れ出て目の前の道を横切っている。滑らないように足元に気をつけながら岩場を登り、沢に備えつけられた銀色の柄杓で水を受け止める。まずは自分の手を洗う。火照った肌がキンと冷えた水に触れて気持ちいい。さらに水をひと掬いしてごくり。まっさらな水に周囲の木々や土の香りが合わさって、白神を味わっているような気分。持ってきた水筒に水を入れて、また歩きはじめる。
あるところでぱっと視界が開けた。気がつけばブナ林を抜けていて、周りには背の低いダケカンバと笹が生えている。風が強く、霧とも雲ともつかない真っ白な水蒸気が左から右へと流れ、私たち登山者の全身を包んでは通りすぎていく。さっき山の中腹から見えていた頂上の小屋が、自分の目線と同じ高さに見えた。
頂上だ! 後ろを振り返ると眼下には日本海が広がっている。浅瀬の碧、深い青、水平線の鈍い紺……遠くまで青のグラデーションが連なり、山の上からでも海の透明度が手に取るように見えて驚く。山と海がこんなにも近いなんて。耳を澄ますと風に乗って沢の音が聞こえてくる。山の水がブナの林を伝って海に落ちていく気配がする。
朝6時半から登りはじめて、頂上に着いたのがお昼12時をまわったところ。おおむね予定通りだ。
頂上のベンチに座って持参したおにぎりをかじり、水筒に汲んだ沢の水を飲む。海と反対側にはどこまでも山々がつづいている。話に聞いていた核心地域だ。山襞が多く、一山一山越えるのは難儀だろう。もしも入れたらの話だけれど。
現在の山頂避難小屋は、老朽化した山小屋を深浦町が寄付金などで修復したもの。寝袋やテントを持参して白神岳山頂にひと晩泊まり、星や朝日を眺めて帰っていく人もいるという。小屋は無人で予約などは不要だが、あくまでも避難用なので節度ある使い方をしよう。
天気は晴れていたものの、風が強くて少々寒い。風避けをしようと無人の避難小屋に入る。青森ヒバが使われているため、一歩踏み入れると木の内部にくるまれたようないい香り。小さいけれど3層になっていて、頑張れば20人ほど入れそうだ。あまりにも心地よいので、5分ほどひと眠りさせてもらうことにした。帰りもあの険しい道が待っているんだから、体力を回復させないと。
下山は日暮れとの勝負。登りは撮影しながら5時間ほどかけて頂上に到達したけれど、秋の夕暮れを思うと17時前には登山口に下りていたい。筋肉痛で震える足で斜面をおずおずと下る。
「今ぐらいの紅葉がはじまるかどうかという10、11月の秋口もいいですし、冬の落葉したモノトーンの世界もいい。もちろん4、5月の春先のブナ林も美しいですよ。一気に新芽が芽吹いて緑の濃さが増すものですから、登山の行き帰りでまるっきり風景が変わってしまうこともあるんです」と八木橋さん。全身くたくただけど、そんな話を聞いたらまた来たくなってしまう。
16時過ぎ、登山口に到着。その晩は、〈深浦観光ホテル〉に泊まって、満身創痍の身体を温泉に沈めて深く眠った。
翌朝、車で深浦町の十二湖に向かう。
十二湖には、12といわず33の湖沼がある。青池や鶏頭場(けとば)の池が有名で、驚くほど青く透き通った湖が点在している。車でも行きやすいので、のんびり家族旅にもよさそうだ。
十二湖の湖畔にある〈そばいろ茶屋〉に立ち寄る。青森の知人におすすめされていた蕎麦店だ。店主が1人で切り盛りしていて、一つひとつの料理が時間をかけて丁寧に供される。ここは湖の真横にある元旅館を使ったお店で、食事ができる畳の間は湖の上に浮いていると錯覚するような景色だ。湖を眺めながら足を伸ばして時間を過ごす。
隣のテーブルにいた作業服姿の男性2人組は、どうやらこのお店の常連のよう。話しかけてみると、白神山地の森林管理の仕事に携わっていて、昼休憩をしているところだという。狩猟免許を取得していて、たとえば地元の人や旅行者からクマを見たと連絡が入ったときには、現場をパトロールして、必要とあれば追い払ったり、捕獲したり、駆除したりするという。「この秋冬は山にドングリもブナの実もいっぱい成っているからよかった。クマも人がいる里までは下りてこないんじゃないかな」と山のことを教えてくれた。
「クマも好んで人のいる場所には出てくるわけじゃない。山に食べ物がなくて飢えてしまうから里に下りてくる」と日頃からクマを追っている写真家の船橋さんも言っていた。白神山地のような山岳地帯ともなれば、山の生き物たちの生活圏に人間がお邪魔しているわけだから、鳥獣と人との接触をコントロールするにも限界があるだろう。山と人のほどよい距離感とは何なのだろう。
そんな話をしていたところで、お蕎麦がやってきた。冷たいざる蕎麦と温かい鶏蕎麦。どちらの蕎麦も清らかでいい香り。小鉢の山菜は味わい深くてこれもまたおいしい。「そうそう、ここの店主も猟友会のメンバーなんですよ」「山を見回りする猟友会の人数も減ってきているから、若手が参加してくれるのはありがたいね」と二人がおいしそうに蕎麦をすすりながら話してくれた。
すっかり腹ごしらえをしたところで、西目屋村へ向かう。午後はブナの大木・ファザーツリーに出合うべく、逆方面から白神山地を歩くのだ。深浦町から鰺ヶ沢町の海沿いの道を通り、内陸の西目屋村に入る。
ファザーツリーに向かう途中で出合った登山客。以前は新緑の時期に白神を訪れていて、今回は紅葉目当てに来たという。
2時間ほどのドライブの後、西目屋村に到着する。
本日のガイドも白神山地ガイド会の八木橋さんだ。「白神岳よりはやさしい道ですから」という言葉に嘘はないけれど、筋肉痛で平地もよろよろ歩いている今日の私にとっては、いずれにせよハードな道のり。大きな高低差はないけれど、ブナ林の落ち葉が敷き詰められた道なき道で、ときどきぬかるみを踏んで転びながら歩く。白神岳の森よりも風が強いようで、曲がりくねって成長したブナも多い。
「ブナは間隔をあけて育つんですよね。なかには結合して夫婦ブナなんて呼ばれるブナの木もあるんですが、ほとんどのブナはある程度の距離感がある」と八木橋さんが教えてくれる。そう言われてみると、たしかに鬱蒼とした暗い森という感じはなく、どこか風通しがよくて明るい。
秋冬は落葉するので、太陽の高度は低くても森のなかは明るい。
「あ、見つけた」突然、船橋さんが背後で呟く。もしかしてクマか、とドキドキしながら振り返って船橋さんの視線の先を追う。すると地上5mほどの木の上に、鳥の巣のようなものが見えた。
「クマ棚ですね。クマは木登りして枝に座りながらブナの実を食べるんですよ。そのときに食べ終わった枝をああやって木の枝に積んで座布団のように敷いていく習性があるんです」と船橋さん。よく見ると、木の幹にはクマの爪痕も残っている。あんなに高いところまで登れるなんて……クマにはパワーも運動神経も到底敵いそうにない。
ブナの木の上にあったクマ棚。
ブナの木の幹に刻まれたクマの爪痕。
道案内の看板についていたツキノワグマの毛。クマは看板に身体を擦りつけるのが好きなのだという。
クマ撃退用スプレー。唐辛子の辛味と同じ成分が入っていて、動物を殺傷することはないが、吹きかけられると驚いて逃げるそう。
クマを見たことはありますか? と八木橋さんに聞いてみた。
「山歩きしていて、年に数回あるかないか。出会い頭ってことはなくて、クマも私もお互いに何十mか離れたところで気がつくね。それで目を合わせながら遠ざかっていく。クマも滅多に人に寄ってこないし、もちろん私たちからも近づかない。もしものときは、このクマスプレーですね」と腰に下げた缶を見せてくれる。クマ撃退用スプレーだ。あとはクマベルを鳴らしながら歩き、ときどき手を叩いたり声を出したりして人がいることを示しながら森を歩いていく。お互いに不幸な出会いをしないための山歩きの工夫だ。
ブナの巨木を見るたびに、これか、あれか、と思っていたけれど、どれもファザーツリーではないようだ。ファザーツリーというのは、白神山地を歩いていた地元の人や登山客に自然と呼ばれるようになったブナの巨木のこと。森の奥に行くほど、大きなブナの木が増えてきたけれど……。1時間ほど登ったり下ったりを繰り返したところで、八木橋さんがようやく立ち止まった。
「ファザーツリーに着きました」
崖の上に立った、ひと際大きな老木。
樹齢は推定400年。高さは30mほど。4m以上あるという幹の周りをゆっくり一周歩いてみる。木の片側には大きな虚(うろ)があって、中が朽ちていて底が見えない。真っ暗で地中を覗きこんでいるよう。ふっと空気を吸い込むと、水分を含んだ黒々とした土の香りがした。木と土のあわいにいるみたい。
木の内側や表面にはキノコが生えている。それは木が弱っている印でもあるのだと、八木橋さんが教えてくれた。「マザーツリーと呼ばれるブナの木もこの近くにあるんだけど、そちらももう枯れかけているんです。このファザーツリーも寿命が近づいていますね」
森の木が死ぬというのは、いったいどういう状態なのだろう。
ファザーツリーと呼ばれるその木には、キノコが生え、苔が生え、蔦が絡まり、連続した生命がそこにあるようにも見える。急に命が終わるのではなく、少しずつ死んでいく。時間をかけて土に還っていき、死んでいくと同時に別の何かの生命とつながっていくーー。白神のそのブナの木は、途方もなく繰り返されてきた山の命の連なりを想像させるのだった。
白神山地(青森県観光情報サイト内)
https://aomori-tourism.com/spot/detail_247.html
白神山地ビジターセンター
https://www.shirakami-visitor.jp/nyuuzan.html
>>Access
青森県側の白神山地は、県の南西部にある深浦町、鰺ヶ沢町、西目屋村に位置している。県外から3つの町村へ向かう主なアクセス方法は、以下を参考にしてください。
空路……青森空港、大館能代空港、秋田空港
新幹線……新青森駅、秋田駅
*各空港、駅から列車、バスで向かう
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