第二次世界大戦中にナチ・ドイツにより行われた悲惨な大虐殺は近年も、研究がつづいている。 また繰り返さないように正しく反省するためにはどうすればよいか、研究者に聞いた。
text=Masako Shibata, Ayaka Takei, Baku Momoki, TRANSIT
第二次世界大戦中にナチ・ドイツによって行われた、人類史上最悪ともいわれる大虐殺(ホロコースト)。第二次世界大戦終了までに約600 万人のユダヤ人と、ポーランドの政治犯など数百万の非ユダヤ人が射殺や毒殺により命を奪われた。その残虐性は戦後も世界中の関心を集めつづけ、ヒトラーという人間やナチ・ドイツ、ホロコーストを深掘りする研究や創作は枚挙に暇がない。
1960年代になるとアメリカで「ミルグラム実験」が行われ、社会心理学に大きな影響を与えた。残虐性のない一般的な人間であっても、権威のあるものに指示されると暴力や殺人などを行ってしまう心理を明らかにしたもので、絶滅収容所の責任者だったナチ・ドイツの親衛隊員の名前をとって「アイヒマン実験」とも呼ばれている。
近年では、ナチ・ドイツだけではなくドイツ以外のヨーロッパ各国にも責任を問う研究が盛んになっている。ヨーロッパでのユダヤ人差別の始まりは古代にまでさかのぼる。キリスト教の権力が強まるにつれて排斥されるようになり、ホロコーストは「ユダヤ人問題の最終的解決」という名目で行われていた。ホロコーストが歴史上の出来事として風化していくなか、ホロコーストの歴史を認めない者が現れたり、一部の国では極右政党が台頭しナチ・ドイツ的な全体主義が復活したりしていることも見逃せない。誰であっても、そして今の時代であっても、ホロコーストのような排斥活動の当事者になる可能性は大いにある。ホロコーストをあらゆる観点から検証し、正しく反省するためにはどうしたらいいのかを考えたい。
【国際関係学】
ドイツだけが加害者ではない。
チェコのテレジン強制収容所跡。ほかにオランダやノルウェー、フランスなど、ヨーロッパ各国に収容所は存在した。
© 7_k
筑波大学人文社会学系教授
柴田政子さん
ホロコーストの罪は、戦後長らく加害国としての(西)ドイツが一身に背負ってきたといっても過言ではない。しかし1990年代以降、この歴史観に変化が現れた。シンティ・ロマや同性愛者など「忘れられた犠牲者」が注目されるようになったと同時に、ドイツ周辺国において自国の加担や傍観が招いた悲劇を認識し、いわば自国史の暗部に光を当てる政策が推し進められた。ヴィシー政権によるユダヤ人国外追放を大統領が謝罪したフランスや、ホロコースト教育の世界的タスクフォースを首相が推進したスウェーデンは好例だが、他でも同様の動きがある。
冷戦下の東欧諸国において、ホロコースト教育は一種のタブーとされてきた。伝統的に反ユダヤ主義が濃く、共産主義者はむしろナチズムの犠牲者という観点から、多くのユダヤ系自国民がガス室に送られた歴史に光が当てられることはなかった。「アウシュヴィッツ症候群」の言葉が示すように、ホロコーストの悲劇はポーランドの同地に集約されてきた。
しかし共和国建国後のチェコでは、旧ナチ強制収容所のテレジン・メモリアルが、セミナー室や宿泊所を備えたホロコースト教育施設として再生された。ハンガリー政府は1999年、ブダペストにホロコースト・メモリアル・センターを創設、その使命は2004年の記念館開設に結実した。こうした動きの背景に、共産主義政権崩壊後に史料が明るみに出たことや、欧州統合があるのは明らかだ。ホロコーストを自国史の一部ととらえることは、ヨーロッパ人の一種のパスポートとなったといえる。加えて、このうねりの礎には戦後ドイツが国策として歴史政策・歴史教育を進めてきた歩みがあり、近隣国はじめ広く世界がそれを評価してきたことを忘れてはならない。
しばた・まさこ
専門は比較国際教育学、 教育社会史など。近年はヨーロッパにお けるホロコーストを含む戦後の歴史教育 を主に研究している。
専門は比較国際教育学、 教育社会史など。近年はヨーロッパにお けるホロコーストを含む戦後の歴史教育 を主に研究している。
【歴史学】
都合のよい解釈の登場。
アウシュヴィッツ絶滅収容所の「労働は自由にする(Arbeit macht frei)」と書かれた門は今ではフォトスポットの様相を呈している。
学習院女子大学教授
武井彩佳さん
この特集を読んでアウシュヴィッツに行こうと思い立ったあなたは「ダーク・ツーリズム」の実践者だ。「ダーク・ツーリズム」―戦場跡や墓地など、悲惨な歴史があった場所に足を延ばすことだが、現在アウシュヴィッツ=ビルケナウをはじめ、ホロコーストの現場は世界中から多くの人が訪れる「観光スポット」となっている。有名な「労働は自由にする(Arbeitmacht frei)」と書かれた門の前や、敷地内に引き込まれた線路が終わる場所では写真を撮る人が群がる。では人はなぜホロコーストの現場に行くのか。
中東欧で強制収容所跡地などが観光地化した背景には、2000年代以降にある種のブームとなったことがある。各地でメモリアルが建設され、歴史博物館が開館し、関連する映画も多数生まれ、ホロコーストの露出度は格段に高まった。同時にそれは情報の氾濫を招き、専門家でなければ事実かフェイクかの判断がつかない情報も多く出回り、なかには単に悪意のある言説も飛び出した。「歴史修正主義」や「ホロコースト否定論」と呼ばれるものである。これが人びとの認識を歪め対立を煽るゆえに、現在では多くのヨーロッパ諸国がホロコースト否定を法で禁止している。たとえば「アウシュヴィッツにガス室はなかった」といった主張は処罰されるようになっている。
ホロコーストの当事者は加害者も犠牲者もほぼ不在の時代に入っている。そんななかで、現地に赴く人たちは、そこに死の場所が「あった」ことを確認し、写真をSNSでシェアするなら一言そのコメントを入れるだけでもよい。想像したところで当時の状況は実感できないかもしれないが、それだけでも歴史の継承という役割を担っているのだ。
たけい・あやか
ドイツ近現代史、ホロコー ストを中心に研究。著書に『歴史修正主義』 (2021・中公新書)など。
ドイツ近現代史、ホロコー ストを中心に研究。著書に『歴史修正主義』 (2021・中公新書)など。
【哲学】
全体主義を復権させないために。
ハンナ・アーレント( 1906~1975 )。1951年に発表された著書『全体主義の起原』は2016年の米国大統領選後、アメリカでベストセラーとなった。
© Barbara Niggl Radloff/wikipedia
関西大学法学部准教授
百木 漠さん
ハンナ・アーレントという哲学者をご存じだろうか。『全体主義の起原』や『人間の条件』などの著作で知られる、20世紀を代表する政治哲学者である。近年、彼女に関する研究書や解説書が続々と出版されている。なぜ今アーレントの思想が注目を集めているのだろうか。
アーレントはドイツ出身のユダヤ人であったためにナチ政権による迫害に遭い、18年間に及ぶ亡命生活を余儀なくされた。ベルリンからパリへ、パリからニューヨークへと亡命し、戦争が終わったあともアメリカに留まり著作活動をつづけた。なぜ、当時もっとも先進的で民主的であったはずのヨーロッパからナチズムという独裁体制が生まれてしまったのか? なぜ我々はナチズムを、ホロコーストを止めることができなかったのか?これが、彼女が生涯をかけて取り組んだ問いであった。
おそらく、アーレントが今また注目を集めているのは、彼女の思想が現代社会と強く共鳴しているからだ。アメリカではトランプ氏が大統領に返り咲き、ヨーロッパでも移民排斥を叫ぶ極右政党が躍進。こうした政治状況は、ヒトラーがユダヤ人排斥を叫び独裁者にまでのし上がった過去を否応なく想起させる。実際に、トランプ大統領の盟友イーロン・マスク氏が壇上でナチス式敬礼をして物議を醸したことも記憶に新しい。
アーレントは、地道な「活動」と「語り合い」こそが国家の利益を優先させる全体主義に対抗する手立てになると説いた。異なる意見をもつ者同士が同じ世界で共生していくために、根気強く話し合うこと。その努力を放棄したときに、全体主義が再来する可能性は決して否定できない。政治における複数性の重要さを強調したアーレントの教えに、今こそ学ぶべきだろう。
ももき・ばく
ハンナ・アーレントを中心に政治思想、社会思想を研究。著書に『噓と政治―ポスト真実とアーレントの思想―』(2021・青土社)など。
ハンナ・アーレントを中心に政治思想、社会思想を研究。著書に『噓と政治―ポスト真実とアーレントの思想―』(2021・青土社)など。
1933年
国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)がドイツの第一党になる。まもなく、ドイツのダッハウに最初の強制収容所が建設される。
1935年
ユダヤ人差別の法律、ニュルンベルク法がドイツで制定される。
1939年8月
ナチ・ドイツとソ連が不可侵協定に調印、東ヨーロッパを勢力圏に分割する。ナチ・ドイツとソ連が不可侵協定に調印、東ヨーロッパ を勢力圏に分割する。
1939年9月
ドイツ軍がポーランドに侵攻、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる。ナチ・ドイツとソ連によってポーランドが分割される。
1939年10月
ポーランドに最初のゲットーがもうけられる。
1941年
ナチ・ドイツによる「ユダヤ人問題の最終的解決」と称した殺害計画が立てられ、ユダヤ人の虐殺が始まる。大量殺戮を目的とした「絶滅収容所」が建設され始める。
1943年
4月、ゲットーに住んでいたユダヤ人がナチ・ドイツ軍に対抗した「ワルシャワ・ゲットー蜂起」が発生する。
1945年1月
ナチ・ドイツ軍がワルシャワから撤退。
1945年4月
ヒトラーが自害。
1945年5月
ドイツが連合国軍、ソ連に降伏。連合国軍が生き残ったユダヤ人や捕虜を解放する。
1945年8月
第二次世界大戦終結。主なゲットーが解体される。
出典: https://encyclopedia.ushmm.org/ja