気がつけば、日本のどこでもおいしいインド料理を食べることができたり、西葛西や神戸、沖縄でインド人コミュニティができ上がっていたり......いつの間にか日本中に広がっていたインド人ネットワーク。日本のリトルインディアが気になる! ということで、『日本の中のインド亜大陸食紀行』の著者で、日本国内とインド現地の事情に詳しい小林真樹さんに、日本とインドの知られざる接点について語ってもらった。
photography & text:MASAKI KOBAYASHI
今や日本のインド人街の代表格のように語られることの多い西葛西。そもそもいつごろ、何をきっかけにして集まるようになったのだろう。 「外国人でも入居しやすい団地があったことが大きいですね。また当時、西葛西は都内の団地の中でも比較的空いていたんです」まだインド人2家族しかいなかった1987年から西葛西に住みはじめ、2000年に発足した互助会組織、江戸川インド人会(Indian Community Edogawa)の副会長職も務めるインディラさんは語る。
コンピューター2000年問題対応や大手企業のIT化といったミッションに従事するため、2000年前後から徐々にインド人技術者の来日が増加。その多くが江戸川区西葛西に在住した。2018年の統計では3,758人のインド人が区内に在住、そのうちの大半が西葛西駅を南北に挟んで建つ広大な団地群に集住している。なかには彼らが在籍するインド系企業が借り上げ、一棟のほとんどがインド人居住者という物件すらある。夕飯時にはインド人学校に通う制服姿の子どもたちががやがやと帰宅し、どこからともなくマサーラーのいい香りが漂いはじめる光景は、まさにインド。地元との交流も重視する彼らは自治会活動にも積極的に参加し、納涼団地祭りなどではインド料理の屋台を出す微笑ましい姿も見られる。
当然、彼らをターゲットにしたビジネスも増加した。元来インド社会では外食よりも家での食事を重視する。西葛西のインド人は家族単位で居住していて専業主婦の割合が多いため、家庭内で食事をすることが多い。調理に必要なインド食材は、北インド人の経営する〈スワガット・インディアンバザール〉や南インド人の経営する〈TMVS FOODS〉といった個人店が以前からあったが、2020年にはインド食材輸入大手の〈アンビカ〉が団地近くの大手スーパー内に出店。定番の乾燥スパイス類や米・豆といった穀物に加え、インド直輸入の生鮮野菜なども置くようになった。さらに神戸を拠点に関西圏で広くインド食材やレストラン業を手掛けている〈神戸スパイス〉も関西から進出。競争はより激化している。
もちろん西葛西は外食店も充実している。団地には単身者世帯向けの棟もあり、ここに入居しているのは来日するまで実家やまかない付きの会社の寮で生活していたような、料理に不慣れな独身ITインド男子たち。彼らの旺盛な食欲を満たすのが、たとえば駅の南側に位置する〈ムンバイキッチン〉だ。自慢はムンバイ仕込みのビリヤニで、現地と寸分たがわぬ味とボリュームを求めて若いインド人がやってくる。南インド料理が食べたければ〈スパイスマジック カルカッタ南口店〉へ。パリッと香ばしいドーサを出すこの店のオーナーは、江戸川インド人会会長のチャンドラニーさんである。このように、インド人人口の増加とともに、飲食をはじめとする関連サービスも拡充の一途をたどっている。
そして西葛西の駅前に真打のような店が登場。インド菓子専門店の〈東京ミターイー・ワーラー〉である。家庭料理を重視するインド人だが、さすがに手の込んだ菓子までは作らず、店で買う。口を嘉することの好きな彼らはなにかにつけてお菓子を食べ、あるいは手土産にする。そのためインドではどんな小さな街にも必ず菓子屋がある。日本人一般には甘すぎて最初は驚くかもしれない。同店の主要ターゲットは明らかに在住インド人なのだ。〈東京ミターイー・ワーラー〉の出現で、かねてより高かった街のインド濃度はさらに濃くなった。今、日本で一番熱いインド人街の姿がそこにある。
神戸インド人社会の成立はおよそ100年前にさかのぼる。幕末の開港以降、横浜を拠点としていたインド人貿易商たちは関東大震災に罹災。インド人死者28名という甚大な被害を受け、当時地震が少ないといわれた神戸に、インド人たちが大挙して移住した。これが現存する日本最古のインド人街誕生の経緯である。ちなみに現在、神戸のインド人は第5世代目に入っている。
神戸に移ったインド人たちは、戦前から戦後にかけて繊維製品の輸出や三重県沖で養殖される真珠の輸出業に従事。繊維商のなかには大阪・船場に事務所を構え、神戸の自宅から通う通勤族も多数いた。彼らのビジネスは戦後日本の高度成長と共に活況を呈していき、いつしか神戸はリトルボンベイと呼ばれ、神戸の経済はインド人でもっているといった噂がまことしやかに囁かれるほどとなる。ところが90年代のバブル経済終焉とその後に襲った1995年の阪神・淡路大震災によって、壊滅的被害を受ける。これ以降、在日インド人たちの間で海外に拠点を移す動きが相次いだ。こうして大正時代の関東大震災を期に神戸に誕生したインド人街は、阪神・淡路大震災とともに縮小していった。
ところで、神戸の街がこれほどインド人と密接な関係で成り立っているにもかかわらず、インドレストランの数が少ないことにお気づきの方がいるかもしれない。実は、インドの富裕層は自宅に家政婦を置いて料理させるのが一般的で、外食は稀。複数での会食の場ももちろん自宅。日常食から来客時のご馳走にいたるまで、あくまでも家庭で調理し、家庭で食べるのが基本なのだ。
そんな神戸在住インド人のライフスタイルを感じさせる食堂が今もある。北野・異人館街を南北に貫くハンター坂の中腹に位置する〈インド本場家庭料理クスム〉である。インド富裕層の家庭の多くがそうであるように、クスムの料理も純菜食。厨房ではいかにも美味しそうなものを作ってくれそうな恰幅の良いサリー姿のインドのおばちゃんたちが、ときに家庭で食べられている日々のまかないのような料理を、ときに品数の多い宴席料理を、丁寧に作ってくれる。噛みしめるチャパティの素朴で深い味わいが、古きよき神戸インド人の家庭の残り香を感じさせてくれるのだ。
沖縄本島中部に広大な敷地を有する米軍嘉手納基地。その第2ゲート前から東に延びる県道20号線は、通称コザゲート通りと呼ばれる。今でこそ寂れている一帯はしかし、かつてベトナム戦争をはさんだ60~70年代には、米兵向けのレストランやホテル、ディスコやナイトクラブといった施設が立ち並び、彼らの落とすアメリカマネーを求めて沖縄地元民はもとより、華僑、台湾人、香港人、フィリピン人などの外国人も集まり大いに賑わった。そのなかにスィンディーと呼ばれるインド人商人もいた。英領時代から綿花栽培が盛んだったインドでは、独立後もアパレル業が主要産業の一つだったが、彼らは主に米兵相手の洋品店や仕立屋といった商売をし、最盛期には何人もの従業員を雇うほど多忙を極めたという。
現パキスタン領スィンド地方をおもな故郷とする彼らは、第二次世界大戦後、分離したパキスタンから難民となってインドに移り住んだものの、新しい土地になじめず、多くが海外に活路を見出した。当時イギリス領だった香港に渡ったものも多かったが、彼らを雇用したインド系商会が米国占領下の沖縄に目をつけ、支店を開設したのが沖縄インド人社会のはじまりである。1972年の本土復帰と同時にいくつかの商会は沖縄から撤退するが、それと相前後して商会に勤務していたインド人社員たちは沖縄に残ることを決意。独立して個人商店を立ち上げた。それが今もコザゲート通りに残る洋品店なのである。
毎週月曜日の午前、彼らは北中城にある小さなヒンドゥー寺院に集まる。週に一度の礼拝日なのだ。バジャンと呼ばれる神様への賛歌がゆったりと唱和される小さな講堂に集うのは、多くが復帰前から住み続ける高齢化したインド人。衰退著しい個人商店を継ぐ子息たちは少なく、自分たちの代で店をたたもうとする人が多い。ただでさえ閑散としたうえに、コロナが追い打ちをかけたコザゲート通りに往時の面影はないが、点在する彼らの店の英語看板は米ドルに沸いた狂熱の日々を物語る。米兵が覚えやすいようにボビーやサニーといったアメリカ風のニックネームを名乗る彼らが語る沖縄訛りの話は、知られざるもう一つの沖縄戦後史である。
リトルインディアのルーツを知ろうとして見えてきたのは、意外にも日本の近現代の歩みだった。日本とインドとのつながりに触れるために、はたまたおいしいインド料理に出会うために、日本に散らばるリトルインディアを訪ねてみませんか?
インド食器・調理器具専門業者
小林真樹(こばやし・まさき)
インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。仕事を通じて、国内のインド、ネパール、パキスタン、バングラデシュ出身者と深く関わる。著書『日本の中のインド亜大陸食紀行』(阿佐ヶ谷書院)では、日本で体験した現地感たっぷりのインド亜大陸の食の話が綴られている。ほかにもインド現地の食事情を語り尽くした『食べ歩くインド南・西』『食べ歩くインド北・東』(旅行人)も。
インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。仕事を通じて、国内のインド、ネパール、パキスタン、バングラデシュ出身者と深く関わる。著書『日本の中のインド亜大陸食紀行』(阿佐ヶ谷書院)では、日本で体験した現地感たっぷりのインド亜大陸の食の話が綴られている。ほかにもインド現地の食事情を語り尽くした『食べ歩くインド南・西』『食べ歩くインド北・東』(旅行人)も。