ブータンの国民的女優
タンディン・ビダが語る、映画の今。
気になるブータン映画も

ブータンの国民的女優
タンディン・ビダが語る、映画の今。
気になるブータン映画も

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2025.11.24

9 min read

東ヒマラヤ山脈の南麓、中国とインドと国境を接する国・ブータン。“幸福の国”として知られるこの国の映画に、今おもしろい変化が起きているという。国民的女優タンディン・ビダに、ブータンにおける映画製作のリアルを聞いた。

Text: Takatoshi Inagaki

日本で「ブータン」という国名を耳にしたとき、どんな風景やイメージを思い浮かべるだろう。豊かな山岳地帯、穏やかなコミュニティ、人びとが祈りを捧げる風景あるいは、“幸福の国”という象徴的なフレーズだろうか。
 
『ブータン 山の教室』(2019年)や『お坊さまと鉄砲』(2023年)といった映画は、そのような自然と精神性のイメージをブータンにもたらしてきた。高層ビルの立ち並ぶ大都市圏の喧騒ではなく、時間がゆっくりと流れ、独自に育てられてきた文化と伝統が市民を包み込む、いわば一種の“理想郷”として。
 
しかし今、ブータンの映画界にはひとつの変化が起きている。
 
「大阪アジアン映画祭」のプログラム・ディレクターである暉峻創三(てるおか・そうぞう)さんは、ブータンで国際映画祭が開催されるようになったことや、自国の作家をサポートする姿勢に注目し、「ブータンのインディペンデント映画はおもしろい状況を迎えています。既存のイメージを覆す作品がいくつも出てきている」と話す。
 
2025年8月、第21回大阪アジアン映画祭で日本初上映された『アイ、ザ・ソング(I, the Song)』のため、主演女優タンディン・ビダ(Tandin Bidha)が来日。ブータンのトップスターである彼女が、日本ではほとんど知られていないブータン映画の「今」を語った。

ブータンの国民的俳優タンディン・ビダ。監督やプロデューサー業を務めることも。

ブータン映画の変革期を生きる

ブータンの国民的女優、タンディン・ビダが映画界に入ったのは18歳のとき。約15年間のキャリアで45本の商業映画に出演し、絶大なる人気を獲得した。「子どもの頃から周りの人びとを楽しませるのが大好き。みんなを幸せにしたくて俳優の仕事を始めました」という。
 
主演映画『アイ、ザ・ソング』は、ブータンの“幸福な国”というイメージを覆すシリアスな一作だ。題材は、伝統的な価値観がいまだ根強い国における“動画流出”と女性の尊厳。主人公の女性教師ニマは、オンラインでポルノ映像が拡散されたという疑惑をかけられて立場を失ったことから、映像の被写体である、自分にそっくりな女性を探しはじめる……。

ビダがインディペンデント映画に出演したのは本作が初めて。「常に成長したい、学び続けたい」という理由から、かねて監督のデチェン・ロデルに直談判していたという。
 
「俳優としては、いつも新しいことに挑戦したいのです。デチェン・ロデルはブータンでもっとも素晴らしい監督のひとりで、彼女の作品は世界の映画祭で上映されています。以前から『チャンスをください』とお願いしていましたが、私は商業映画の俳優だから無理だろうと思っていました。そうしたら、彼女のほうからこの映画の話を持ってきてくれたんです」
 
映画のストーリーも役どころも知らされず、「俳優を探しているんですが、興味はありますか?」という連絡だった。当時、主演を務める予定だった俳優が企画を離脱したため、後任者として声がかかったのだ。

求められた二役は、性格も生育環境も正反対な2人の女性。ビダは迷わずオファーに飛びついたが、「期待に応えなければいけないプレッシャーにおびえていた」という。その後、1年間を費やしてロデル監督との読み合わせやリハーサルに臨んだ。
 
撮影期間はおよそ40日間。ビダが「完璧主義者」と呼ぶロデル監督は、日ごと異なる役柄を徹底的に演じることを求め、どのシーンも15テイク以上にわたって粘り強く撮影を繰り返した。一日が終わって家やホテルに戻ったあと、塩水に浸かることで、半ば強制的に自分をリラックスさせたこともあったと話す。

映画を通じて社会に貢献したい

「ブータンの俳優の90%は専門の訓練を受けていません」とビダは言う。そこにあるのは、専門の知識や技術ではなく、より民間的なやりかたで“演技”が学び取られてきた歴史だ。
 
「私自身も演技のメソッドをきちんと理解していません。私たちは、人びとの性格や振る舞いをじっと観察し、あらゆる映画や本に触れ、監督と話し合いながら試行錯誤を繰り返します。いうなれば、それが私にとっての“メソッド”です」
 
母親は元舞台女優。しかし、若き日の母親が舞台に立っていた当時のブータンには、女性が演技を仕事として追求できる環境も、そしてチャンスもなかった。母が女優だったという事実をビダも長らく知らなかったという。
 
俳優を引退した母は自らのビジネスを始めたが、ビダは演技の道を突き進んだ。両親の期待と異なる選択をしたと理解していたこともあり、若いころはがむしゃらに働き、「お金を稼ぐことばかり考えていた」と告白する。
 
「けれども年を重ね、世界中の映画祭に参加し、デチェン・ロデルのような素晴らしいつくり手と出会うなかで、“私にはやるべきことがある”と思いました。お金を稼げるようになった今こそ、他の人のために働くべきだと。アーティストとして社会に貢献し、この業界から何かを生み出したい若い世代に刺激を与える仕事がしたいのです」
 
現在はブータンで自らの制作会社を設立し、プロデューサーとしても活動している。コロナ禍のさなかには、ブータン初の配信プラットフォームにて、妊娠に悩む女性を描いた初の監督作品を発表(もしもこのときの)。また、2024年にはセクシャルマイノリティをテーマにした映画を手がけて社会への問題提起を試みた。

「若い頃はエンターテイナーとして、2〜3時間だけ観客が自分たちの問題を忘れられる時間をつくろうと思っていました。それが今では、華やかなだけのものや、単なる劇映画を作るだけでは満足できなくなった。むしろ、教育や啓蒙にお金と時間を投資したいのです」
 
コミュニティのつながりが密接なブータン社会における、デジタル社会の落とし穴や女性のアイデンティティを訴えた『アイ、ザ・ソング』は、「ひとりのアーティストとして語りたい物語だった」という。プロデュース・出演を兼任した新作も、ブータンの若者たちが洋装に憧れるなか、民族衣装を守ろうとする教師の物語だ。出資を決意したのは、母国の文化や価値観を守る重要性を広く伝えられると考えたからだった。
 
これからは、自らの出演作だけでなく若い世代の支援にも積極的に取り組む構えだ。すでに大学や教育現場にたびたび赴き、学生相手への講義を無償で引き受けているという。
 
「若者が素晴らしい物語を書いてくれて、その物語を通してやりたいことがあるのなら、価値がある物語には投資したい。プロデューサーとして参加したいし、よい脚本があれば監督を務めることにも関心があります」

メインストリームとインディペンデント、ブータンと世界をつなぐ

ビダの大きな変化に影響を与えたのが、ほかでもない『アイ、ザ・ソング』だった。ロデル監督による厳しい現場を、ビダは「一種の公開指導」と振り返る。「監督の話に耳を傾け、学び、実験し、演じる日々を経験したことで、私はよりよい俳優、よりよい人間になれたと思います」
 
『アイ、ザ・ソング』はブータンの映画賞「ナショナル・フィルム・アワード」で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演女優賞など8部門に輝き、米国アカデミー賞のブータン代表に選出された。

「インディペンデント映画がナショナル・フィルム・アワードを総なめにする快挙で、ブータン映画にもようやくコラボレーションの可能性が生まれてきました。これから先、商業映画と自主映画が互いに協力しあえるかもしれません」
 
これまで、ブータンの商業映画の最前線をひた走ってきたビダ。「私はずっとメインストリームの俳優。今でもそれは変わりません」と語る。しかし、現在は商業映画とインディペンデント映画のつくり手をつなぐことがひとつの目標になった。「今後は片脚をメインストリームに、もう片脚をインディペンデントに置きながら活動していきたい」という。
 
「インディペンデントの監督たちは、商業の役者は演技が下手だと考え、映画を撮るとき過去に経験のないフレッシュな人を探します。けれども、商業映画の俳優は長年の経験と演技のスキルがあり、そして優れた脚本を待っているのです。毎回新人を起用し、演技の訓練をつけなくとも、双方がスムーズによい結果を出すことができるはず」

また、大阪アジアン映画祭をはじめ世界各国の映画祭を訪問し、ブータンについて語る機会を得られたことも「大きな達成だった」と笑顔を見せた。
 
「観客のなかにはブータンの場所を知らない人も、私がセレモニーで着ていたのが民族衣装だったのだとわからない人たちもいます。それでも私たちの物語を語れば、世界中の誰もが共感してくれることがありうる。コミュニティの物語を語り、私たちの話をすることで、より深く理解してもらえる……本当に素敵なことです」
 
そして、最後にこうつけ加えた。「この『アイ、ザ・ソング』を皮切りとして、世界中の映画祭にブータン映画が続々とやってくる未来を願っています」

気になる、ブータン映画

『アイ、ザ・ソング』(2024年)


タンディン・ビダ主演。教師ニマは、拡散されたポルノ動画の被写体ではないかという疑惑をかけられ、無実を証明するべく、自分に瓜ふたつの女性を追う。関係するはずのなかった女性2人の時間がゆるやかに絡まっていき。国内外の映画祭で高い評価を受け、米国アカデミー賞の国際長編部門ではブータン代表に選出された。日本公開未定。

『ブータン 山の教室』(2019年)

歌手を夢見る青年教師ウゲンは、ある日突然、電気もなければ電波も通じない標高4,800mのルナナ村へ赴任させられる。生活さえままならないなか、彼は子どもたちと心を通わせ、“幸福”と“学び”の意味を見つめ直していく。日本でも2021年に公開され、豊かな自然と素朴な暮らしの表現で注目された感動作。
https://bhutanclassroom.com/

『お坊さまと鉄砲』(2023年)

『ブータン 山の教室』のパオ・チョニン・ドルジ監督による長編第2作。民主化直前の2006年、初めての模擬選挙を控える山村で、高僧が若い僧侶に「銃を用意せよ」と命じた。時を同じくして、アメリカ人のガンコレクターがブータンに現れ。変わりゆく社会と人びとの価値観を優しい視点で風刺したコメディ。日本では2024年公開。
https://www.maxam.jp/obousama/
 
Blu-ray|¥5,500 DVD|¥4,400 発売・販売元|マクザム

© 2023 Dangphu Dingphu: A 3 Pigs Production & Journey to the East Films Ltd. All rights reserved

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Yayoi Arimoto

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