水野仁輔のカレーの旅、スパイスの謎。
vol.3メキシコ
「唐辛子の妖怪による七変化」

水野仁輔のカレーの旅、スパイスの謎。
vol.3メキシコ
「唐辛子の妖怪による七変化」

People: 水野仁輔

TRAVEL&LEARN&EAT

2025.03.31

4 min read

古代より重宝されてきた香辛料は、シルクロードや海をわたり世界地図を広げ、各地で個性豊かな食文化を拓いてきた。この連載は、カレー&スパイスにまつわる著作や活動で知られる水野仁輔さんの、飽くなき探究心が導いた、世界を旅した記録と記憶である。 第3回は太陽の国メキシコで出合ったモーレと「唐辛子」について。

Photo : Jinke Bresson

Text:Jinsuke Mizuno

世界各地でさまざまな“スパイスの洗礼”を受けているが、唐辛子に関してはメキシコを筆頭に挙げる以外に選択肢はない。
唐辛子の原産地はおそらくペルー周辺の南米諸国だと思うが、僕が知る限り、世界でもっとも多種多様な唐辛子を料理に使う国はメキシコである。だからメキシコにおける唐辛子との邂逅は、洗礼というよりも憑依のようなものだったかもしれない、と今でも思い出す。
 
メキシコ南部の街・オアハカでモーレを習ったときのこと。
モーレとは、コクのある濃厚なソースを肉にかけて味わうメキシコ料理の代表作で、オアハカで生まれたといわれている。先生はオアハカの先住民の流れをくむ女性で、名をミネルバと言った。歳のころは60過ぎ。かっぷくがよく背は低い。大げさなジェスチャーをしたり不敵な笑みを浮かべたりすることなく、まっすぐ静かに僕を見つめ、控えめに挨拶をした。彫が深くてまなざしは優しく、いかにもおいしい料理を作りそうな女性だった。

市場のにんにく。まとめ売りする姿が印象的。

市場のハーブ屋。店主がハーブに埋め尽くされていた。

ゆっくりと歩き出す彼女のあとについて市場へ。少しディープなところにあるらしい。ミネルバが道中、ふと足を止めてこちらを振り返り、子どもに諭すように言った。
 
「この辺りからはスリに注意してね」
 
僕はカメラのストラップを握る手を強めた。彼女は、通いなれた市場内で躊躇なく歩を進め、僕は背中を追いかけた。
 
「この先がチレ(唐辛子)の場所よ」
 
彼女がそう言い終わるか終わらないかのうちに、前方に思わぬ光景が広がった。

多種多量のチレが山と積まれているのだ。息が止まりそうになった。「山と……」はおおげさでなく、自分の背丈よりもはるか上まで唐辛子で埋めつくされている。巨大な妖怪が立ちはだかったかのよう。こちらから近づいているのにむこうから迫ってくるようだ。もしザバーンと覆いかぶさってきたら、ひとたまりもない。
 
あたり全体に漂うチレの香ばしくスモーキーな香り。
 
「メキシコ料理はチレがなければ成立しないのだよ」
 
無言のまま軽やかに歩き始めたミネルバにそう言われているような気がした。

市場で食べた「メメラ」。タコスの仲間のような料理。

タコス専門店では具にする各種肉をごった煮している。

03

モーレクッキングに必要ないくつかの食材を手にし、市場内で朝食をすませ、外に出るとミネルバの娘さんの車で自宅へ向う。明るく素敵な中庭と雰囲気のあるオープンキッチン。すでに炭火がおこされ、鉄板の上では青トマトがジュージューと焼かれていた。
 
モーレは予想をはるかに超えて手間がかかる料理だった。3種のチレを使う。チレムラート(Chile Mulato)は大ぶりで辛みは弱く、うま味が強い。チレパシーヤ(Chile Pasilla)は色が黒く、サルサなどにも使われる。チレチポトレ(Chile Chipotle)は燻製香が強く辛味もそれなりにあって、タバスコの原料としても有名だ。徹底的な天日干しによって既に不思議とスモーキーな香りがするものもあったが、追い打ちをかけるように焙煎された。
 
ミキサーでグルグルと回されると、どこか懐かしい香りが漂ってくる。メロウでディープな香り。渋谷の老舗カレー専門店〈ムルギー〉の香りに似ているのだ。んんん。ひとり、唸った。

鍋の中ではさまざまな食材がじっくりと煮込まれている。次に見た光景に僕は唖然とした。下準備の段階で除去してあったチレの軸と種が鉄板の上でボオボオ、メラメラと燃えているのだ。真っ黒焦げになったチレは水に浸し、ミキサーに注ぎ込まれる。ウィーンという派手な音の後、ざるで濾すと墨汁のようになった。
 
モーレ・ロホ(赤)をモーレ・ネグロ(黒)にするための色づけに使う、とミネルバ先生は解説してくれた。“墨汁”が混ざり合ったモーレを味見すると、さっきまでなかったはずの風味が生まれていた。苦味とまろやかさが見事に調和していて、それは神保町の老舗店〈共栄堂〉のカレーを食べているようだった。ムルギーの香りがし、共栄堂の味がする。僕は幻影の中にいるのだろうか。少々混乱した。
 
チレは見事な妖術を使って姿を目まぐるしく変え、その都度、僕を惑わせた。モーレがカレーとなり、モーレに戻り、またカレーになるのである。何はなくともチレがすべて。チレに始まり、チレに終わる。ひとつのスパイスからあれほど豊かで奥行きのある風味が生まれるとは思いもしなかった。
 
あの市場で見た妖怪は、確かに恐るべき存在だったのだ。帰国した後もずっと僕はとりつかれたままでいる。

Profile

水野仁輔(みずの・じんすけ)

1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。

1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。

Profile

記録写真家

ジンケ・ブレッソン

学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。

 

学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。

 

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Yayoi Arimoto

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