ポーランドときいて思い浮かべるのは、クラシックを聴く人であれば「ショパン」、歴史に関心があるなら「アウシュヴィッツの悲劇」、雑貨好きなら「ボレスワヴィエツ陶器」などではないだろうか。
歴史も文化もある懐の深いポーランドだけれど、実際に訪れたことのある人となると、その数は限られてくるかもしれない。今回は、そんな神秘のベールに包まれたポーランドを、「ワルシャワが世界遺産になった理由」「ショパンの望郷」のテーマで、この国を紐解いていきます。
vol.1では、ワルシャワを歩きながらこの街が世界遺産になった理由についてみていきます。
Text & Photograpy:Sachiko Suzuki(RAKI COMPANY) Cooperation:ポーランド政府観光局
栄光と悲運に彩られたポーランドの歴史は、複雑で難解だ。
ポーランド王国が誕生するのは10世紀のこと。14~16世紀に隆盛を極めるが、王朝断絶後は衰退し、18~20世紀初めにロシア・プロセイン・オーストリアによる分割で国が三度も消滅する。第一次大戦後の1918年に束の間の独立を勝ち取るも、第二次大戦中はドイツとソ連に蹂躙される。戦後は社会主義時代をへて、1989年に民主国家となる。
私自身、たびたびポーランドを訪れていて、歴史を頭に入れているつもりでも、次に行くときにはキレイさっぱりと忘れ去ってしまっている。ただ何度も足を運んでポーランド各地の歴史的遺産を鑑賞していると、改めてその歴史を一つひとつ体得するような楽しみがある。そして何度訪れても、とにかくポーランド人の人の良さと愛国心の深さにはいつも驚かされるのだ。ポーランドとはなんなのか? この国の人びとの愛国心がどこから生まれてくるのか? そんなことが、少しずつわかるようになってくる。
ポーランドを旅する人がおそらく初めて訪れる街は首都ワルシャワだろう。ワルシャワの旧歴史地区(旧市街と新市街)は、ユネスコの世界遺産に登録されているが、ここは「世界遺産」のなかでも異例中の異例といえる存在だ。世界遺産になるための条件は、過去の歴史的価値と普遍性。しかし、ワルシャワは戦争によって一度消えた後、市民の手で再建された街が登録されているのだ。
「北のパリ」と称えられ、700年の歴史を誇った麗しき都ワルシャワは、1944年にナチス・ドイツによって破壊され、ほぼ完全に消滅してしまった。第二次大戦後、ワルシャワ市民たちは戦前に描かれた絵画や人びとの記憶を総動員し、レンガのひび割れひとつにいたるまで忠実に、戦前と変わらないワルシャワ歴史地区をまるごと復活させたのだ。
「街の復興にかける市民の不屈の精神」が認められて、1980年にユネスコ世界遺産に登録される。かろうじて残っていた古い建物の基礎部分と再建された部分の継ぎ目は、現在ではほとんど分からなくっている。フレデリック・ショパン博物館などに行くと、ショパンが生きていた19世紀前半の街のスケッチが展示されているが、実際に現在の歴史地区を歩いてみると本当に絵のとおり、というのがよくわかるはずだ。
旧市街でまず見ておきたいのは「旧王宮」。1596年にポーランドの首都がクラクフからワルシャワへ遷都されたころは、ヨーロッパでもっとも美しい宮殿のひとつと評判だった。なかでも「王冠の間」の美術品や調度品は、第二次大戦前に国外へ持ち出されていたため難を逃れ、幸運にも現在も目にすることができる。そしてなんと王宮内の博物館では、オランダ屈指の画家レンブラントの絵画『額縁の中の少女』と『机の前の学者』が展示されていて、存分に鑑賞できるのだ。
旧王宮広場から北へ足を進めると、旧市街広場へ出る。広場の中心には人魚の記念碑が建ち、周辺をオレンジやブルー、イエローの瀟洒なデザインの建物が取り囲む。ポーランド中から集められたクラフトアートの店や、カフェ、レストランなどが並び、夏にはジャズフェスティバルが開かれ、クリスマスの頃になると、広場中心に天然のスケートリンクが登場する。旧市街の細い路地を歩くと、中世のころの雰囲気をたたえる書店やチョコレートドリンク専門店など、ポーランドらしい店に出くわす。
旧王宮広場から南へ歩くと、ワルシャワ中心部のメインストリート、クラクフ郊外通り、新世界通りへとつながり、大統領官邸やワルシャワ大学を目にすることができる。
大通りにはポーランドのソウルフード「ピエロギ(ポーランド版水餃子)」や定番スイーツ「ポンチキ(ジャム入りドーナツ)」専門店、カジュアルな地元向けレストランなどが目につき、ワルシャワっ子たちの日常を感じられる。
ワルシャワの街で興味深い話を耳にした。
ヴィスワ川によってワルシャワは東西に分かれている。旧歴史地区とヴィスワ川を挟んだ東側(左岸)はプラガ地区と呼ばれる。かつては「ワルシャワでもっとも危険な地区」といわれたエリアだ。もともとは工場地帯で、第二次大戦中はソ連赤軍の駐屯地だったこともあり、戦禍を逃れほとんどの建物は残された。この十数年で再開発が進み、アーティストが住み着いて、新しいアパレルショップやクラブ、ミュージアムなどが増え、さしずめワルシャワのソーホーといった趣だ。
実はこのプラガ地区周辺には、ドイツ軍によって破壊された建物のレンガを戦後に購入して家を建てた人がいる。教えていただいたのは、30年以上ワルシャワに住んでいる日本人の小見岳史さん。数年前にポーランド人の配偶者の祖母が亡くなって遺品を整理していたら、当時支払った瓦礫代の領収書が出てきたというのだ。
1万個の瓦礫を購入し、1千個分の金額が470ポーランドズウォチだったとのこと。現在の金額価値は不明。国や自治体というのではなくごくふつうの市井の人がワルシャワ市内の瓦礫を買って家を建てるというその行動が、愛国心の象徴のような気がしてならなかった。