台湾×野球する編
世界の頂点に立った
台湾野球の軌跡。

月刊TRANSIT/もうひとつの台湾特集

台湾×野球する編
世界の頂点に立った
台湾野球の軌跡。


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2024.12.16

5 min read

動詞別で台湾を読み深める「もうひとつの台湾特集」の「野球する編」!

この秋冬で台湾全土が一番熱狂したのは野球だったかもしれない。2024年11月9日から24日まで行われた野球の国際大会「プレミア12」。2023年のWBC制覇が記憶に新しい日本勢は当然優勝候補の最有力候補に挙げられたが、その予想を裏切ったのが台湾だった。「強い台湾野球」はどのようにして生まれたのか。その歴史から現在までを振り返る。

Text :Kenichiro Tazawa

2024年11月に行われた野球の国際大会「プレミア12」。決勝戦では台湾が日本を破り初優勝を遂げた。プロが参加する野球の国際大会は複数あるが、プレミア12はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、五輪(オリンピック)と並び三大国際大会にも数えられるビッグイベントの一つだ。この三大大会で台湾が優勝するのは初である。
 
ただ、台湾野球は1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得しているように、1970年代から1990年代にかけ国際大会で存在感を発揮していた。アジアでは日本、韓国と並び「三強」と称され、国際大会でも日本と好勝負を繰り広げることが少なくなかった。だが、2000年代に入ると台湾野球は低迷、アジアでは格下と思われていた中国に星を落とすこともあった。それだけに今回の優勝は、台湾野球の復活を野球ファンに強く印象づけたといえる。台湾国内のニュース番組は連日プレミア12に関する話題で埋め尽くされ、台湾では日本の2023年のWBC優勝を彷彿とさせるほどの盛り上がりを見せた。

2024年11月のプレミア12で、野球の国際大会において初優勝を果たした台湾。

© AFP/アフロ

台湾野球の歴史は古い。そして、その普及には日本も大きく関係している。台湾は1895年から1945年まで、大日本帝国の領土だった。野球はそのなかで日本から流入したさまざまな文化のうちの一つだ。日本統治時代には、春夏の甲子園に台湾代表チームも出場。なかでも出場校の一つである嘉義農林は日本人指導者が強豪に育て、名選手も生まれた。そのエピソードは『KANO 1931海の向こうの甲子園(原題 KANO)』というタイトルで2014年に映画化され、台湾で大ヒットを記録している。
 
終戦後、台湾は日本領から中国大陸における中国共産党との内戦に敗れた中華民国(中国国民党)の本拠地となり現在に至る。その過程で野球は人気スポーツとして市民権を得ていく。1970年代から1990年代にかけては、政府の後押しもあって国際大会で好成績を残すようになる。1990年には待望のプロリーグ「中華職業棒球聯盟(CPBL)」が始まり、1997年にはもう一つのプロリーグ「中華職業棒球大聯盟(TML)」も誕生。台湾野球はますます発展すると思われた。しかし、前述したように2000年代初頭から低迷期に入ってしまう。
 
実は、この2つのプロリーグの並立は野球の興隆ではなく、プロ参入を目指す企業の不認可がきっかけ。いわば対立・分裂したような状態であった。さらに野球賭博のスキャンダルが発生。台湾プロ野球はイメージダウンがつづいた。その影響もあり、1990年代後半からメジャーリーガーを夢見てアメリカに渡る若い有望選手が続出する。2002年にドジャースで台湾発のメジャーリーガーになった陳金鋒などもいたが、多くは選手として未熟な状態での挑戦。成功例は少なかった。
 
その後、2つのプロリーグは2003年に統一され、新たなCPBLとして再スタートを切る。だが、再び野球賭博の問題が発生。若い世代の人材流出が止まることはなかった。2000年代以降の国際大会における台湾の不振は、こうした背景が影響していたのである。

台湾は1992年のバルセロナ五輪で銀メダルに輝いた。

© AP/アフロ

ただ、CPBLは地道に選手強化と環境整備を進め、2010年代の半ばから野球人気は徐々に回復。さらに海外のプロを経験した選手が指導者になり始めると、かつての強さを取り戻していく。その過程では日本人指導者の力も大きかった。
 
設立当初から台湾プロ野球は、戦力外通告を受けた日本のプロ野球選手が新天地としてプレーする場にもなり、日本人指導者もよく招かれていた。だが、台湾でメジャーリーグ志向が強くなると、台湾野球はアメリカンスタイルの影響が色濃くなる。その結果、フィジカル、スタイル的にアメリカを見据えた野球が日本人指導者による野球とマッチしない選手も生まれてしまい、日本的な緻密な戦術などが台湾に浸透しにくくなった。
 
だが、近年は再び日本人指導者の存在感が強まっているという。そこには、日本企業である楽天が2019年に台湾の球団「Lamigoモンキーズ」を買収、「楽天モンキーズ」として積極的な球団運営を展開したことも影響しているだろう。パワーとスピード以外、きめ細やかなプレーやチーム一体となって勝ちにいく姿勢と方法に長けた日本野球の好影響は、攻守に渡って代表チームの強化につながった。

プレミア12で投手陣の柱の一人となった張奕。

© 日刊スポーツ/アフロ

それは今大会のプレミア12の決勝戦、「4対0」というスコアにも表れている。低迷期の台湾は、投手力を筆頭に守りが弱く、台湾プロ野球も打撃戦が目立った。だが、今季日本代表の井端弘和監督が「台湾はどの投手も素晴らしかった」というコメントを残したとおり、投手陣が奮闘。留学して日本の高校野球で育ち、オリックスや西武でもプレーした右腕・張奕の好投も目を引いた。台湾は2000年代以降の課題を克服しての優勝だったといえよう。というよりも、もともと国際大会で強さを発揮していた頃の台湾は、日本の西武で先発投手としてプレーしていた郭泰源など好投手の活躍が印象深かった。その視点から考えると、やはり今回の優勝は、「強さを取り戻した」という表現がふさわしいといえるのではないだろうか。
 
参考文献『真のファンなら知っておきたい野球の世界情勢』(石原豊一/ベースボールマガジン社)

Profile

田澤健一郎(たざわ・けんいちろう)

山形県出身。高校時代は鶴商学園(現・鶴岡東)で三塁コーチやブルペン捕手を務めた元・球児。大学卒業後、雑誌TRANSITの編集など出版社勤務をへてフリーランスの編集者・ライターに。Numberなど野球を中心とするスポーツ、歴史、旅、建築・住宅などの分野で活動中。著書に『あと一歩! 逃し続けた甲子園』(KADOKAWA)がある。

山形県出身。高校時代は鶴商学園(現・鶴岡東)で三塁コーチやブルペン捕手を務めた元・球児。大学卒業後、雑誌TRANSITの編集など出版社勤務をへてフリーランスの編集者・ライターに。Numberなど野球を中心とするスポーツ、歴史、旅、建築・住宅などの分野で活動中。著書に『あと一歩! 逃し続けた甲子園』(KADOKAWA)がある。

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Kei Taniguchi

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