vol.12 バングラデシュ
「極限までスパイスを引き算する」

連載|水野仁輔のカレーの旅、スパイスの謎。

vol.12 バングラデシュ
「極限までスパイスを引き算する」

People: 水野仁輔

TRAVEL&LEARN&EAT

2025.12.25

5 min read

古代より重宝されてきた香辛料は、シルクロードや海をわたり世界地図を広げ、各地で個性豊かな食文化を拓いてきた。この連載は、カレー&スパイスにまつわる著作や活動で知られる水野仁輔さんの、飽くなき探究心が導いた、世界を旅した記録と記憶である。 第12回は、バングラデシュの釣り船で出合った、どこかカレーの味がするまかない飯の記憶。

Photo : Jinke Bresson

Text:Jinsuke Mizuno

バングラデシュで魚を釣ろうと、東インドから国境を越えたことがある。車で8時間かけて首都のダッカへ 。道はデコボコで、車が揺れるたびに体が宙に浮き、天井に頭をぶつけそうになる。過酷な車内をよそに車窓からはのどかな田園風景がゆっくりと流れていた。
 
ダッカ到着後、深夜発のフェリーに乗った。バングラデシュを分断するように流れるポッダ(パドマー)川の源流は、かの有名なガンジス川。水平線が見えるほど広大な川を下ること4時間。早朝に釣り場となる街、チャンドプールについた。

狙う魚はイリッシュというベンガル料理の最高級魚。ニシン科の魚で海に生息するが、産卵期に川を遡上する。希少価値が高く、バングラデシュで獲れるイリッシュの大半はインドのお金持ちが買い占めるという噂すらある。

漁師の舟に乗せてもらうと、6人の男がズラリと並び、手には網の端が握りしめられている。イリッシュ漁は釣り竿ではなく網を使うそうだ。号令と共に一斉に網が引かれると、50尾ほどのイリッシュがお目見え。腹の部分がキラキラと銀色に輝いて美しい。穫れたての魚はまかない飯になった。

舟にいる調理人が、鍋にあれこれと放り込んでいる。マスタード油、タマネギ、グリーンチリ、ターメリック。しばらく炒めたところでいくらかの野菜と水が投入され、グツグツと煮込まれた。主役の魚を素揚げしてから加えていく。料理はテンポよく進んだ。

ターメリックの黄色が溶け出したスープはシャバシャバで、強い火力に煽られボコボコと音を立て、大小さまざまな気泡を作っている。15分ほど後、彼はイリッシュを取り出し、「食べていいよ」と言ってポンと皿にのせてくれた。指で骨を除いて口に入れ、ホクホクと食べる。風味がよくて脂がのっている。スープは胃の隅々までしみわたっていくよう。ご飯が欲しくてたまらなくなった。

ポッダ川に陽が落ちていく。オレンジ色を赤色に変えながら。濁った水平線の先、モヤで視界が晴れない空からじわりと姿を消していくと、ぼんやりと薄暗い明りを辺り一面に残した。
 
まかない飯は、まぎれもなくカレーの味がした。香りの素はグリーンチリとターメリックのみ。スパイスはたったの2種しか使っていないというのに不思議だ。ニンニクやショウガが入っていたとしても少なすぎる。川の恵み、魚の風味があの味に貢献したというのだろうか。

翌日、僕はダッカ最大の市場、ジャトラバリ・フィッシュマーケットを訪れた。漁師たちの魚がどう売られているのかを見たくなったからだ。

狭い通りに男たちがひしめき合ってスピーディーに行き交う。頭上には大量の魚を入れた壺。足元は水たまりだらけで、僕の靴は数分もしないうちにグチャグチャになった。売り場では桶やバットにいる魚たちがビチバチと自由に体をよじらせくねらせている。尾ひれを跳ね上げて、濁った水をあたり一面にピチャパチャとふりまいている。
 
僕は完全に場の空気にのみこまれていた。匂いと音と景色の混然一体となった空間には、川の恵みに対する執着がギュウギュウに詰まっているようだ。無造作に立ち並ぶテントの屋根と屋根のすきまから、刺すように朝日が差し込んでいる。

市場の喧騒のなかで、僕は昨日のイリッシュカレーを思い出していた。僕にとってカレーの世界を拡張させてくれる味わいだった。
 
さまざまなスパイスを駆使してこそホンモノのカレーを作り出せると考えていた。シンプルなおいしさもあるのは知っていたが、極限までスパイスを引き算しても想像を超える香りを生み出せる。魚自体のもつ豊かな風味との調和がおいしさを生んでいるのだろう。この先あの味を食べることはもうないのかもなぁ、と思うと少し切なくなった。

Profile

水野仁輔(みずの・じんすけ)

1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。

1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。

Profile

記録写真家

ジンケ・ブレッソン

学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。

 

学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。

 

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Yayoi Arimoto

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