古代より重宝されてきた香辛料は、シルクロードや海をわたり世界地図を広げ、各地で個性豊かな食文化を拓いてきた。この連載は、カレー&スパイスにまつわる著作や活動で知られる水野仁輔さんの、飽くなき探究心が導いた、世界を旅した記録と記憶である。 第6回は、パキスタンの国民食であるニハリを食べ歩いたエピソード。
Photo : Jinke Bresson
Text:Jinsuke Mizuno
タマネギに大量の油を加えて炒め揚げる。水牛の塊肉とスパイスを加えて炒め煮し、水を注いで5~6時間ほど煮込む。完成する料理は、「ニハリ」という。パキスタンの人びとは、このこってりと濃厚なシチュー料理にナンを浸して朝から食べる。その不思議な料理の秘密を知りたくてパキスタンにやってきた。隣国のインドと国交が断絶状態にあり、場所によっては緊迫した空気が漂う国。気を緩めてばかりはいられない旅となった。
アラビア海沿岸にある南部の街、カラチで創業55年というニハリ専門店を訪れた。大通りの交差点に面した広い店先に売り場がせり出し、男がひとり座っている。目の前の床に大鍋が埋められ、大きな穴がアラビア海開いていて 、ビーフニハリを鍋いっぱいに湛えている。骨髄や脳みそ、油脂分をトッピングできるようだ。1日に作られる量は1500㎏で、ざっと見積もって4000人分以上!この地でニハリが親しまれている証拠としては十分な事実だ。
席に戻って注文をする。運ばれてきたニハリは、濃厚でトロミがあり、口に含むとゆっくりと喉元を過ぎていく。色はクリーム色をしていた。食後にチャイを飲もうとしてふと手が止まった。あれ、ニハリと同じ色じゃないか。ゴクリと飲み、ひと息ついて改めて店内を見回して気がついた。目に入る景色がどこもかしこもクリーム色なのだ。建物の壁、地面、土ぼこり、照りつける日差しもニハリをつけて刷毛で塗ったようにクリーム色をしている。
レストランの2階で調理し、この穴から大鍋を1階へ下げる。
店を出て問屋街への道を歩いた。別に埃っぽいわけでもないのに不思議と街に漂う空気さえもクリーム色に感じられてくる。市場へ。色鮮やかなスパイスたちにテンションが上がる。片っ端から声をかけ、ニハリを作るためだけにスパイスが配合された「ニハリマサラ」を味見した。クローブやシナモンなどの他、爽やかな香りのアニスシードも入っていたりする。あれもこれも買ううちにカバンが膨れていった。
市場でニハリマサラにばかりフォーカスしていた僕は、視野を一気にズームアウトする。辺りの景色は、やはり一面、クリーム色の世界。パキスタンはクリーム色の国である。
満腹のまま地元の警察署へ向かった。日本のパキスタン大使館でお世話になった方の同級生がここにいる。立派な部屋へ通されると一人の男の人が入ってきた。アザール・カーンと名乗ったその男は、カラチ中央グルバーグ管轄の警察署長。ニハリの話で盛り上がり、ひょんなことから署長室でニハリをいただくことになった。
テイクアウトしたニハリは、油がそれほど浮いてなく、とろみが強い。グリーンチリをどっさりトッピングしたからヒリヒリと辛くてうまい。彼は15歳ごろに初めて母の作ったニハリを食べたという。
「このニハリより母親のニハリのほうがはるかにおいしいよ」
彼は誇らしげにそう言った。
出国前に洋書のパキスタン料理専門書を開いたら、ニハリのレシピ名に「MORNING DELIGHT」とあった。「朝の喜び」とはニハリの語源らしい。夜が更ける頃に仕込み、夜通しコトコトと煮込み、朝、できあがったニハリをいただく。徹底的に時間をかけ、衝撃的に濃厚な味わいを生み出す。イスラーム教徒の食への執念が垣間見える。
カラチで食べたニハリ。ビーフ以外のすべての材料が煮溶かされている。
カラチから北上し、インドとの国境の街、ラホールへ飛んだ。パキスタンでは北上するに連れてスパイス感が弱まっていく。何軒かニハリを食べ歩いたが、一様に色が濃い。淡い焦げ茶色をしていて辛味は少なく、市販のカレールウで作る日本のカレーに近い印象だ。スパイスや小麦粉を焙煎したような香ばしさがあって、スパイスそのものの香りは確かに弱まっている印象だが、これはこれでうまい。
ニハリはインドからカラチに移民したイスラーム教徒たちが伝え、パキスタン全土に広まった料理だといわれている。かつてインドのオールドデリーで食べたニハリは、焼き印を押したように力強くスパイスが香っていた。ニハリを追って定点観測をつづけるとエリアごとにスパイスの重要度が変わるのがおもしろい。料理は地続きにグラデーションをなし、国境の線は後から引かれているからだろう。ニハリがそれを実感させてくれた。
水野仁輔(みずの・じんすけ)
1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。
1974年、静岡県生まれ。幼少期に地元・浜松にあったインドカレー専門店〈ボンベイ〉の味に出合ってから、スパイスの虜に。自ら料理をつくり、本を執筆し、イベントを企画して、スパイスとカレーにまつわるおいしく楽しいカルチャーを世に広めている。
記録写真家
ジンケ・ブレッソン
学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。
学生時代、バックパックで訪れたパリで写真に目覚める。以後、ライフワークである世界各地への旅にカメラを携え、記録をつづけている。
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