1597年2月5日、「日本二十六聖人」として知られるカトリック信者が長崎にて殉教しました。
16世紀末までに、日本におけるカトリック信者は約30万人に達し、キリスト教は比較的小規模ながらも成長をつづけていました。同時に、権力側はヨーロッパ諸国の植民地主義と、カトリック司祭の影響力の拡大を懸念。次第にキリスト教への弾圧を強めていきます。
1597年に長崎で起こった「二十六聖人の殉教」は、日本におけるキリスト教迫害の象徴的な出来事でした。1596年、スペイン船サン・フェリペ号が四国沖で難破した際、船長が「スペイン帝国は宣教師を各国に送り込み、植民地支配の足がかりとしている」と発言。この情報が時の権力者、豊臣秀吉に伝わり、キリスト教徒が日本を裏切る可能性があると疑念を深めた秀吉は日本にいるカトリック宣教師の処刑に踏み切ったのです。
処刑対象となったのは、6人のフランシスコ会修道士、17人の日本人修道士、3人の日本人イエズス会員を含む計26人のカトリック信者。彼らは京都から長崎へ連行され、1597年2月5日、西坂の丘で磔刑に処されます。これは、日本においてキリスト教信仰を理由に行われた最初の大規模な処刑であり、その後のキリスト教迫害の先駆けとなりました。
キリスト教迫害はその後もつづき、江戸時代には「元和の大殉教」や「京都の大殉教」など、大規模な弾圧が行われました。しかし、密かに信仰は受け継がれ、信者は「隠れキリシタン」として命をかけて信仰を守り抜きます。
殉教した26人はのちにカトリック教会で敬われるようになり、1862年6月8日、教皇ピウス9世によって列聖されます。彼らは「日本二十六聖人」として知られ、遺骸の一部は聖遺物として各地に送られるなど、日本よりもヨーロッパで広く知られる存在となったのです。
現在、26人が処刑された丘には日本二十六聖人記念館が立ち、信仰の自由が失われた日と、300年にも及ぶ自由を取り戻すための長い闘いを今に伝えます。
館内では、フランシスコ・ザビエル直筆の手紙をはじめ、禁教政策の象徴ともいえるキリスト教禁止の高札、隠れキリシタンが密かに受け継いできたロザリオや聖母マリアの肖像画など、貴重な資料を数多く展示。歴史と祈りのこもった場所として、西坂の丘は今もなお、多くの人びとにとって特別な存在でありつづけています。
キリストが十字架に架けられたエルサレムの「ゴルゴタの丘」に似ていることから、殉教者たちが自らこの地を処刑の場に願い出たといわれている西坂の丘。春の穏やかな日差しのもと、長崎の歴史を巡る旅はいかがでしょう。
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